「賽は投げられた」という有名な諺がある。
賽というのはサイコロのことで、「サイコロは投げられた、前進あるのみ、もう後戻りはできない」という意味で使われる。
由来は古代ローマに遡る。ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、英語読みジュリアス・シーザーでも知られている)が元老院の召喚命令に反旗を翻し、軍隊を率いてルビコン川を渡る際にラテン語で「alea iacta est(賽は投げられた)」と言った言葉として知られている。
当時、ローマの北の防衛線として知られていたルビコン川を、軍隊と共に渡る行為は禁止されていたため、「もう後戻りはできない」追いつめられた状況に対し、口にした言葉がラテン語の「賽は投げられた」であったというわけだ。
カエサルは武装して入ると反逆者とされ、武装を解いて入ると殺される可能性があったルビコン川を武装して渡る決断を下し、後に独裁官となる。
この「ルビコン川を渡る」行為を「決断の時期」として9歳の危機、あるいはルビコン危機とよんだのがルドルフ・シュタイナーだった。
実は周りでも、9歳・10歳の子供を持つ親から、「最近、子供が難しい。」というような話が結構出ている。家庭内で学校でのストレスを発散しているような印象を受ける。
ところで、9、10歳で何が変化するのだろうか。日本の書店でたまたま手に取った「子供の『10歳の壁』とは何か?」という本が手元にあるので、以下に箇条書きでまとめてみよう。
1)9、10歳の「自分」:自分だけでなく、他人のことについても、自分のことのように考えたりできるようになる。特に、他人の行動から、その人が何を考えているのだろうとか、どんな気持ちでいるのだろうか、といったことを予測できるようになる。つまり、行動の背景にある、感情や考え方まで想像できるようになる。
自分のだめなところを客観的に見られるようになるので、「たいしたことない」などといった劣等感が強まり、自尊心が下がる。
よいところをほめ、「人には得意なこともあれば不得意なこともある」ということや、「いろいろあるから、頑張ったり楽しんだりできる」ということなどを、大人が伝えていく努力をする必要がある。
2)9、10歳の「考える力」:さまざまな認識の領域で、量的にというよりは質的に変化するレベルアップの時期だといえる。自分と他人、主観的な自分と客観的な自分、今の自分と未来の自分など、ものごとを相対化するといった高次の認識が可能になってくる。
ただし、この質的変化の移行には個人差があるので、全体的には不安定になる時期ともいえる。悩んだり、ジレンマにおちいることは心の成長の証なので、そのまま受け止めることが必要。すぐに答えを求めるのではなく、あれこれ考える楽しさ自体を教えてあげることが大切になる。
3)9、10歳の「感情」:「感情」を対象化して考えられるようになり、それを文章や会話の中でも表現できるようになる。間接的な表現から相手の気持ちを汲むことなどもできるように。ただし、自意過剰になる傾向が強いため、考えすぎたりもする。傷付くのを恐れて、感情を抑え込んだりもする。そのため、自分をコントロールできない状況もでてくる。
4)9、10歳の「友達関係」:親の言うことに従うべきだという考えが弱まり、友達との友情が強くなる時期。友達への思いやりが強まる一方で、友達の目が気になる時期でもある。
友達ができない場合は、友達とかかわれるように支援することも必要。友達がいるためにトラブルが多い子もいる。この時期には「いじめ」という構造が成立しやすくなる。経験の中で適切なソーシャルスキルを学ばせ、互いにサポートし合うことができるように支援していくことが大切。
5)9、10歳の「道徳性」:自分以外の人の立場に立てるようになり、自分と親しい人だけでなく、第三者や集団、社会といった視点も理解できるように。ただし、個人差が大きい。
他人の視点や立場に立つ、役割取得能力を育てることが必要。歴史や地理を通して、その時代やその場所で生きる人たちがどのようなことを考え、感じていた(いる)のか、またそれはなぜなのか、といったことを考えること。そういったことが人間に共通した価値を考えるうえで重要な土台になる。ペアやグループで助け合って問題解決を図るなどの手段を使って、より大きな問題解決ができることを学ぶことができる。
我が家の娘も9歳真っ只中なのだが、本人曰く、「クラスの子も面白くて優しいし、何かあってもやり返しているから大丈夫」、なのだそうだ。「暴れたりするのは子供による」、とも言っていた。まだ精神年齢が低いだけなのかもしれないが、ルビコン川を渡る際には、できるだけうまく渡れるように手助けできればなぁと思っている。
参照文献:こどもの「10歳の壁」とは何か?乗りこえるための発達心理学