何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、気付いたら大晦日があまり好きではなくなっていた。
1999年から2000年への年越しはなぜかロシアのプスコフ近辺にある辺鄙な場所で過ごすことになった。
2000年になると同時にコンピュータシステムに異常が生じ、社会を混乱させるのではないか、と懸念された2000年問題というのが浮上した年だ。
「プスコフにダーチェがあるから、そこで年越しパーティーをしよう。」
プスコフなんてもちろん聞いたこともなければ、どこにあるのかすら分からない。
仕方がないのであまり考えず、取り敢えず着いていくことにした。
列車に揺られた後は、徒歩にヒッチハイクである。ドイツ人も散歩が好きなので、「ちょっとその辺まで散歩しよう。」と言われて着いていくと、ハイキング並みに歩かされる羽目になったりすることがある。
それをもっと大幅にスケールアップすると、ロシア人の「ちょっとそこまで。」になる。国が大きいせいだろうか、ロシア人たちは意図も簡単に移動する。
今から思えばプスコフはモスクワからずいぶんと離れていたのだ。当時はグーグルマップなどという便利なものはなかった。
着いた場所はダーチェがポツポツと6軒ほど立っている集落で、モスクワの友人知人など顔見知りがたくさん集まっていた。
暖をとるには外で薪割りをし、かまどに焼べる。自家発電装置は盗難にあっていたので、夜にはガスランプの明かりを頼りに生活をする。
大晦日の晩はСамогон(サマゴン)、いわゆるСам(自分で)、Гнать(蒸留する)=自家製のウォッカが出てきた。
ソビエト時代はウォッカが手に入りづらく、自分たちで密造酒を作っていたのでその名残なのだろう。
さて、そのサマゴンとやら、アルコール度が75%ほどらしく、一口舐めただけで口の中が大惨事になる。
あまりにも大所帯で周りはロシア人だらけ。少し酔っていたのだろう、泊まっていた自分たちの小さなダーチェにふと帰りたくなった。
とにかく静かな場所で眠りたかったのだろう。
雪のかなり深い森の一本道をフラフラしながら歩いて、何とかダーチェにたどりついた。
かまどの火がほとんど落ち、小屋の中が寒かったので薪を足し、そのままひっくり返って寝てしまった。
ふと気がつくと、ダーチェの前の雪の積もった上に放り投げられていて、何人かの顔が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「なんでこんなところにいるの?」
とかなりボーッとした頭で尋ねると、かまどに焼べた薪が湿っていたらしく、小屋が煙で充満していたのだそうだ。
危うく一酸化炭素中毒になるところだった。
そうでなくともプスコフで遭難して行方不明にでもなっていたら確実に凍死していただろう。
ロシアの見知らぬ場所で命拾いをした。