「ベルリンには何年くらい住んでいるんですか?」
何年だろう。気付いたら、もうかなり長くなっていた。
壁崩壊のニュースで脳内にインプットされたであろう街。当時、好きだったアーティストがベルリンについてコメントしていたり、ずっしりと心に響いた映画の舞台がベルリンだったり。何かと自分のテイストに近いイメージを持つようになった街。
「いつか行ってみたいなぁ。」が「ベルリンを歩いてみたい。」に変わっていた。
学生時代のひとり旅でそんなベルリンを実際に歩いてみて、「この街には何かある。」という確信に近い気持ちになったのを憶えている。
他の街にはなかった類の出会いが当時のベルリンにはあちらこちらに転がっていたからだ。それについては「90年代のベルリン」でも触れているので興味のある方は是非。
学生のステータスを得て、若干モスクワで回り道をしたものの、就職や結婚、出産を経て、気付けば割と長くベルリンに住んでいることになる。
初めから特にこれといった明確な目的があったわけでもなく、当時のベルリンの持つ独特の雰囲気に惹かれてちょっと住んでみたいな、といった程度の気持ちでふらりとやってきたのが始まりだ。
外国人局に英語で電話を掛ければ「Nein!」といって容赦無く切られ、一番初めに転がり込んだアパートの目の前がトルコマーケットという異国情緒溢れるロケーションだった上にシャワーすらなく途方に暮れたり。
今から考えると、とんでもない海外生活のスタートを切っている。
海外生活、しかも一人暮らしや赤の他人との共同生活がそもそも初めてだったので、「まぁ、こんなものか。」とすぐに色々と諦めがついた。
当時のクロイツベルクど真ん中。キーツ(特徴のあるエリア)でカルト的人気があるバンドの女性ボーカルに道で拾われたのだから仕方がない。知人繋がりだったのだ。
朝の3時だろうが5時だろうが、気にくわないことがあると爆音で音楽を流す同居人。彼女の御用達タトゥイストのリビング施術流血現場、バンド仲間とのニョッキパーティーetc.
極端なシェアアパートだが、今までの常識がこの街で通じるはずがない。
これまでの常識、といっても別に日本で「社会人」になったわけでもなく、大学を卒業して即ベルリンに来てしまったわけで、大した「常識」があるわけでもない。それでも自分のこうだろう、という範疇を超える日常は驚きの連続だった。
それまでは奈良という落ち着いた環境で鹿に囲まれて生活していたわけなので。
「郷に入れば郷に従え」とは言うものの、自分の周囲にはロシア人やカナダ人、アメリカ人にシリア人、フランス人にドイツ人。どこの何に従えばいいのかもよくわからない。距離感も付き合い方も違えば常識も違う。
そういう中に放り込まれると、自分は自分と割り切って自分のペースで物事を判断する他なさそうである。
そんなカオスな日々が数年続き、ひょんなことからモスクワでインターンする話が浮上し、そこからやっと現実的に物事を考えるようになってきた。
就職はそういう意味ではよかった。それが例えモスクワだったとはいえ。
モスクワの職場も日常もハードすぎたおかげで、ベルリンに帰ってきてから学生を続ける意味が完全にわからなくなった。生きるか死ぬか、みたいな現場から社会的に真っ当なドイツに戻ってきて拍子抜けしたのだろう。ようやく目が覚めた、とも言える。
生活するためには働かなければいけない。単純なことだ。
その流れで就職先が見つかり、そこで良くも悪くも10年間働くことになった。
結婚にも大して興味がなかったが、タイミングで出産数日前に婚姻届を出すことになった。妊娠中も働いていたので、妊娠していることに最後まで気付かなかった友人もいた。
それほど妊娠や出産からは程遠いと自分でも思っていたくらいなので、何だかおかしかったのを覚えている。
何が言いたいのかというと、ドイツに長く住んでいるとはいえ、失敗の方が多く、特に何かを築いたわけでも成し遂げたわけでもない、と言うこと。
だから、在住何年です、と答えて「すごいですねー。」と言われても何がすごいのかよくわからないし、基本的には話を合わせるための社交辞令だと思っている。
ただ、長く住んでいて感じるのは、日本だろうがドイツだろうが、基本的な生活にはさほど違いがないという点だろうか。
朝起きて、朝食を食べ、子供がいるなら「いってらっしゃい」と送り出し、仕事を片付け、買い物をしたり、知人とお茶をしたり、映画を見に行ったり。
要は日々の生活において何に重きを置くか、によるのだと思う。
東京でバリバリキャリアを積みたいのか、自然の近いベルリンで週末をゆったりと過ごしたいのか。ドイツや日本のような国にはそういった些細な違いしかない。
住みたいな、と思えば一度住んでみて、違うな、と思えばまた移動すればいいのである。そういう意味では身軽なうちにあちこち移動して色々と見ておくことをお勧めしたい。