Leben im Ausland und Fremdsprachen / 海外生活と外国語疲労

「最近、ドイツ語に疲れるんだよねー。」

妙なことに周りの気の置けない友人から同じようなコメントを聞くことが何度か続いた。

意外なことに両者とも海外生活が数年とかではなく、ベルリン在住歴が15年以上でドイツ語も堪能、育児と仕事を両立している強者たちなのである。

え、またどうして?と思われるかもしれないが、かくいう私も似たようなことを感じることが何度かあったのだ。

例えば、これまでに諸処の申請手続きは全て多かれ少なかれ自力で行ってきた。

・大学入学手続き
・滞在許可
・住民登録
・失業保険
・育休手当
・子供手当
・幼稚園探し、入園手続き
・小学校の入学手続き など

書類の記入や電話での問い合わせ、書類を持参しての申請などについては手間は掛かるが出来ないことではないので普通にやってきたし、特にだからどうだという話ではない。

それよりも、例えば自分が全く経験のないドイツ(ベルリン)の小学校での懇談会や二者・三者懇談、小学校の次のギムナジウムへの進学に関する情報集めなどをしていると、経験や知識がないだけに余分なストレスを感じてしまうことはあった。

それでも、それらはリサーチをしたり、知人友人との会話の中からヒントを得られることではあるので、これもさほど大変なことではない。

じゃあ、外国語に疲れる原因とは果たしてなんなのか。

それは例えば、ドイツ人のジョークで笑えないことであったり、自分がいくら努力しようがネイティブ並みのドイツ語力を得ることは不可能である、という紛れもない事実だったりする。同じ土俵で戦うには初めから分が悪い勝ち目のない試合に挑むようなもの。

語学力というよりも、ドイツで生まれ育っていない自分には色々なことが欠落している、と言えばもっと伝わるだろうか。

逆に考えれば、それはクリスマスよりも正月の方が本当は大切なこととか、神社の境内に漂う独特の空気を懐かしく思う感覚のようなものではないだろうか。

外国語というのはいくらうまくなったところで母国語のように自由に扱える日などやってはこない。そして外国語で考えるということは、常に思考と言語化の間に薄いフィルターのようなものが掛かっている状態だ。

端的に言えば、どう頑張っても自分の言いたいことを100%伝えることができない、ということになるだろうか。

長く住めば住むほど、変な話ではあるが、その変えようもない事実が心底面倒臭くなったりするのである。

もちろん、周囲を見渡せば、そんなことは微塵も感じさせないドイツ語堪能な在独邦人勢は多く存在する。

海外生活、といっても十人十色で一概には言えないのだが、ある程度の語学力が付いてきたら、それはそれで大変かもね、というお話でした。



Comments

“Leben im Ausland und Fremdsprachen / 海外生活と外国語疲労” への1件のコメント

  1. […] そう、「海外生活と外国語疲労」でドイツ語に疲れる、という話をしたが、それ以前にとっくにロシア語には疲れてしまっていたわけだ。 […]

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