93年に初めてベルリンに旅行者としてやってきた時、Uバーンの2番線はまだ壁の二重に走っていたポツダム広場で断ち切られていた。壁の撤去もまだ全部終わっていなかった頃だ。
95年に1年住んでみるつもりで戻ってきたときには、U2の開通記念でアレキサンダー広場駅には”Warum gerade ich?”というテーマで展示が行われていた。
Warum gerade ich?
当時は右も左も分からなかった。街の中心にがらーんとした空き地が広がり、独特の空気が流れていたベルリンに惚れ込み、ただ住んでみたくてやってきただけだった。何をすればいいのか皆目見当も付かなかった。
ワーホリ制度もなかったので、一番の近道は大学留学を目指す、語学留学生としてビザを申請するという方法だ。
大学で英米文学学科で、たまたま第二外国語はドイツ語を先行していたが、まさかそのドイツにやってくることになろうとは。
生活のため、ビザ延長のためにドイツ語学校に通い、1年半以内に大学入学資格テスト(DSH)に受かる必要があった。
しかし、当時のベルリンには誘惑が多すぎた。
90年代といえば、ベルリンのいわゆるアングラシーン絶世期。毎日、どこかで誰かがアクションを起こし、訳の分からぬ熱気があった時期である。シークレットパーティーが連日、街のあらゆる隙間で行われていた。
結果、毎日寝不足→翌日遅刻、の繰り返し。
ドイツ語学校は文法がさっぱりだったのにもかかわらず、少し話せるというだけでなぜか中級コースに入れられてしまい、案の定全くついて行けなかった。
コース終了後、授業料の安い語学学校に変わり、大学で語学試験を受けるが2点足りずに不合格。
毎日、街を歩き倒し、ろくに勉強もしなかったので当然の結果である。
ドイツの試験は2度までしか受けられない、というのが鉄則。
次の試験で合格しなければ滞在許可の延長も叶わないだろう。まさに崖っぷち状態。
さて、どうするか。
煮詰まっていた時に、シリア人の同居人に「そんな時は気分転換した方がいい。」と誘われ、8歳の子供と一緒になぜかエジプトの砂漠に行くことになったのである。
テスト前だというのに、完全な現実逃避がいとも簡単に実現したわけだ。
その頃、家族のようにお世話になっていたドイツ人の「兄」は「これを一冊読んでおけば大丈夫。」とポール・オースターのMusik der Zufallsをポンッと手渡してくれた。
後が全くないというのに、大好きなポール・オースターの著書を一冊字面を追ってなんとか読み、試験勉強は終了した。
カイロではシリア人の友人の住む、ナイル川に浮かぶハウスボートに泊まり、ベドウィン族であった友人のオーガナイズするツアーに参加する形で白い砂漠へ向かった。
周辺には宇宙か!?というような不思議な形状の石や化石が散らばり、きのこの形をした石灰岩のようなものが出没していた。(残念ながら手元にそれらの写真が見当たらないので、見つけたらアップしようと思う。)
周りにはそれこそ砂漠と砂漠の上を吹く風くらいしかない。
ふと気が付くと、耳の奥でピーンという音以外、なんの音も聞こえなくなった。
どうやら道に迷ったようである。
これはまずい、落ち着け。
じっとその場に立ち止まり、三角座りをして耳をすます。
何分くらい経ったのだろう、向こうのほうからかすかに人の声のようなものがとぎれとぎれに聞こえてきた。
声の聞こえてきたと思われる方向に向かって、早足で歩く。
ドイツ語のテストが例えダメでも死なないが、砂漠で迷うと死ぬ。
単純なことだ。
紅海でシュノーケリングをしたりして、ベルリンに戻り大学入学資格のためのドイツ語テストにはギリギリで合格した。
滞在許可も2年延長することができ、大学に入学届けを出す必要があったので、ロシア語学科、ドイツ語学科、ジャーナリズム学科を専攻することに。
そして、またベルリンを歩き倒す日々が始まったのである。