ドイツ、というかベルリンにもう随分と長く住んでいるが、ずっと敷居の高かったもののひとつにシアターでの観劇がある。
家の近所にフォルクスビューネがあるのにもかかわらず、ずっと理解できないに違いないという思い込みで、敷居を跨げずにいた。
そんなわけでカストロフ監督作品も彼の退陣間際に慌てて数本観ただけでカストロフのフォルクスビューネはあっさりと幕を閉じてしまった。
自分のアンテナに引っかかったものは、あれこれ考えずに観たり聴いたりしたほうが良い。まさに思い立ったが吉日、である。
さて、そんなフォルクスビューネの総監督退陣について調べていた時に気になった人物がもう一人いる。
ヘルベルト・フリッチュ(Herbert Fritsch)だ。2007年にフォルクスビューネの所属を離れてからは、主に演出家として活動しているが、カストロフ作品でも重要な役を演じていたらしい。
このインタビューにおける、彼のフォルクスビューネやベルリンという街に対する思い入れにガツンと来て、彼の演出作品を観てみたいと思っていた。
そんな話を何気なくしていたところ、なんと知人が彼の監督作品に出演していることが判明。その知人からシャウビューネでのder die mannの公演情報を聞き、チケットの手配までしてもらえることになった。何でも口に出して言ってみるものである。
der die mann、ちょっと訳しづらいタイトルだが、この作品はフリッチュがフォルクスビューネで役者をしていた頃にコンラッド・バイヤー(Konrad Bayer: 1950年代にウィーンで発足した実験的な文学サークルの代表者)をテーマにしたソロ・シアターの夕べのために創ったものである。
この作品には、畳み掛けるような言葉のビートや、ダダイズム的なエッセンス、役者のコミカルでダイナミック、かつ繊細な動作を導く音楽が散りばめられており、「ドイツ語」が理解できなくても言葉の持つ音の響きや間など、感覚で楽しめる要素がここそこに溢れている。目で観て耳で聴いて、純粋に心から楽しめる作品ではないだろうか。
ヴェルト紙にセリフの一部が紹介されていたので、参考までに載せておこう。
Man merkt schon, das ist alles nicht so leicht zu beschreiben. So wie die Texte auch nicht nur nicht leicht, sondern überhaupt nicht zu verstehen sind: „und karl verzichtet auf karl“, heißt es einmal, „und karl und karl wird da zum vorläufigen karl ernannt. da nennt karl karl karl. ein karl entspinnt sich. karl entpuppt sich als karl und karl entschliesst sich karl bei karl zu lassen und lässt karl bei karl doch karl lässt karl nicht mit karl bei karl und entschliesst sich karl nicht bei karl zu lassen wenn karl mit karl bei karl bleibe.“
WELT / Fliegende Gummipuppen auf tollkühnen Showtreppen
それはそうと、この作品に出演しているアンサンブル、歌えて踊れて笑いも取る、という鬼才の役者さん揃いなので、一見の価値あり。4名のder die mannオーケストラの紡ぎ出す音も素晴らしいので是非。
タイトル以外の写真はこちらから借用しました:https://www.welt.de/kultur/theater/article137668467/Fliegende-Gummipuppen-auf-tollkuehnen-Showtreppen.html