「ベルリンもほんと変わったよね」①

天気がいいとよく人に会う

5月に入ってようやく暖かく天気の良い日が増えてきたベルリン。そのせいだろうか、ここのところ近所を歩いていると友人知人にバッタリ会うことが多くなった。それだけでなく、ベルリンに来てすぐに知り合いになった友人からもほぼ10年ぶりにメールで近況報告が入ったのである。

うわー、懐かしい。元気にしているのかな。

共通の友人を通じて知り合ったのはこちら20代初め、向こうは30手前だった頃だろうか。当時はドイツ語もままならないのに、周りにあれよあれよとロシア人の知り合いが増え、ベルリンにあるロシア系の新聞社とも繋がりができた。その流れで慰安旅行なるものに呼ばれてついて行ったこともあるくらい。行き先は確かプラハだった。みんなでボートに乗ったり、旧市街にある有名な仕掛け時計を眺めたり。湖に飛び込んで泳ぐ人がいたが、まだ上着を羽織っていたのでちょうど今頃の季節だったに違いない。

その時の写真がまだ残っているが、長テーブルにずらっとロシア人が並んでいて私の姿はない。カメラのファインダーを覗いていたからだろう。ボートに乗っているときに撮ってもらった写真がかろうじてあるくらい。まだスマホのなかった時代というのもあるし、どちらにせよ撮る側に回ると自分の写真が手元に残らないのが常だ。

それはそうと、ベルリンに来た当時はこんなふうに割と普通に周りがロシア語で会話している状況というのが多かった気がする。だから自然にロシア語に興味を持ち、フンボルト大学でもロシア学科の準備コースに通っていた。

週刊紙『ロシアのベルリン』(Russkij Berlin

さて、メールを読み進めていくと、どうやらその新聞社が数年前から経営難でいよいよ倒産の危機があるらしい。そうなれば会社のメールアドレスも自動的に使えなくなるだろう、という内容だった。rg-rb.deで終わるメールアドレス。「なんか面白いからうちの会社のメールアドレス作っておいたよ」なんて言われて、それをそのままほぼメインのメールアドレスとして使うこと早20年以上。まさか新聞社がなくなる危機に面しているとは。時の流れを感じるではないか。

ふと気になって検索してみると、ターゲスシュピーゲル紙にこんな記事(2021年6月17日付)があった。記事内に25周年記念とあるので、彼らの慰安旅行に着いて行ったのは創設年の1996年に当たるのかもしれない。そう思うと色々と感慨深い。編集長のフェルトマン氏は当時からとても穏やかな人物だった。

 „Wir sind eine Zeitung in russischer Sprache, keine russische Zeitung“, erläutert Feldmann. Gelesen wird das Blatt von Russen wie Ukrainern 

「我々はロシア語の新聞社だ。ロシアの新聞社ではない」とフェルトマン氏。ロシア人にもウクライナ人にも読者がいる。

Wochenzeitung “Russkij Berlin”: „Aber wir leben“ 週刊紙『ロシアのベルリン』:我々は生き延びる

実は随分と長い間、フリーランスとして撮影コーディネートの仕事をする時も、ロシアの新聞社のメールアドレスで問い合わせを送っていたのである。受け取った相手の中には、メールアドレスを不思議に思う人がいたかもしれない。当然ではあるが、問い合わせ内容が日本のテレビ番組や調査の仕事、ということが多かったからだ。

ロシアの人は今でも手紙を普通に書くので紙のメディアを好むような気がする。今だに書面で広告主が依頼を寄せるのだとか。ただしコロナ禍に広告が減った影響を受け、経営難に陥ったのだろう。生き延びて欲しいが久しぶりに連絡を寄越してくれた友人が「メールアドレスがなくなるのも時間の問題だと思う。」と書いていたので、もはや回避不可能な状況なのだろう。非常に残念だ。

ポーランド系イベントスペース(Club der Polnischen Versager)

同じタイミングで1年ぶりくらいに連絡をくれた知人もいたので、どうせなら、と近所のギャラリーでパフォーマンスのある日に合流することにした。1年ぶりに会う日本人のママ友と10年ぶり以上のロシア人の友人。近所のギャラリーというのは、Club der Polnischen Versagerというポーランド人アーティストが初めたサロン的なイベントスペースである。まだTor通りにあったときには、たまに顔を出していたんだけれど、今の場所に引っ越ししてからはなぜか足が遠のいていた。キタ(ドイツの保育園兼幼稚園)の帰りには子どもたちと何度も近くを歩いていたというのに。

これまた不思議なことに、先日同じ通りにある別のギャラリーに行こうと思っていたときに、なぜか看板に惹かれてパッと中に入ったのがここだったのだ。

あれ?日本人アーティストだけれど、展示内容が思っていたのとは違うような。

そんなことを思いながらギャラリーをぐるりと見渡すと、作品を作ったであろうその人の姿が目に入った。名刺を見るとやはり日本人である。

「こんにちは。」

と挨拶をし、そこからオーナーの方も途中で加わり長話になった。不思議なものである。ポーランド所縁の場所に今は日本人オーナーが関わっていて、日本人の作品が展示されているのだから。そういえば、90年代とは違いミッテ地区を歩いていると日本人の知り合いに出会すことも増えた。当時からは考えられないことだ。ベルリンの知名度も90年代と比べるとかなり上がっているのかもしれない。ワーキングホリデービザやフリーランスビザが他の欧州の都市に比べれば、まだ取りやすいこともその理由だろう。

さて、当日。日も長くなったので夕飯のあと散歩も兼ねて、珍しく子どもたちを連れてギャラリーに向かう。子どもたちのメインの目的はもちろんギャラリーのパフォーマンスではなく、途中で抜けて食べようとしているアイスの方である。食べ物で釣らないと、どこにもついてきてくれない年頃になったのだ。

ベルリンなのに、日本人のオーガナイズだからか20時過ぎに着いたらギャラリーは満員で立ち見することになった。着いてすぐにパフォーマンスも始まったので逆に驚いてしまった。こういうイベントは少なくとも45分くらいは遅れて始まることがほとんどだからだ。

自分の中にある何かを取り出して、それを文字にして蝋燭に転写、そして火を灯す、というような流れのパフォーマンスだった。せっかくなので蝋燭を作ってもらうことにした。

パッと目についた文字は「無」だった。逆に3つほど並んだ「無」しか目に入って来なかった。やれやれ、一体どういう心境なんだろうか。

「無」のろうそく
その場にい居合わせた人たちのろうそくとその灯り

一期一会、という表現がピッタリとくるパフォーマンス。人の縁もあって、ベルリンでもここまで長くやってこれているのだろうと思う。

予想外に長くなってしまったので、表題の「ベルリンもほんと変わったよね」に至らなかったが、第二弾では久しぶりに会った友人たちと交わした会話を中心に書きたいと思う。



Comments

“「ベルリンもほんと変わったよね」①” への1件のコメント

コメントを残す