これまで、余り先のことを考えずに「まぁ、なんとかなるだろう。」という感じでかなり楽観的に生きてきた。
そして気付いたら、ドイツはベルリンでの生活が日本での生活より長くなっていた。それなのにいまだにドイツは自分にとっては母国ではないし、ステータスも「無期限の滞在許可を持っている外国人」でしかない。
無計画のまま機会があったのでモスクワへ行き、そこでの生活がうまく行かなかったので、またベルリンに戻ってきた、ということもベルリン滞在中に一度あった。
予定をガチガチに立てないのは、うまく行かなかった時にすぐに決断できる余地を残しておく、ということにも通ずるのだろう。
石橋を叩いて渡ろうとしても、私の場合、恐らく叩きすぎて橋が壊れてしまうような気さえする。どちらかと言えば、叩いている暇があれば、橋を使わずに対岸を目指すタイプだ。
周囲の人からすれば、間違いなく危ない橋を渡っているようにしか見えない。
さて、なぜこんなことを書いているのかというと、今年に入ってからコロナウイルスによるパンデミックの影響でさほど綿密には立てていなかった計画の見通しが全く立たなくなってしまったからだ。
しかも今回のケースは前途未聞の先行きの不透明さなのである。まさにお先真っ暗。
ここまで来ると、さすがの私も楽観的ばかりでもいられなくなってくる。
「このまま仕事が途絶えてしまったら。」
「子供達の学校はいつになったら再開するのだろう。」
疑問は山積みで具体的な解決策は限りなくゼロに等しい。
こんな調子だと、どうしても普段以上に懐疑的になり、マイナス思考に陥りがちである。事態が予想以上に深刻で長期化する気配を見せているからだ。
こうして目が冴えて眠れず、思考を整理するために変な時間にブログを書いたりするのも以前の生活からでは考えられない。
こういう非常時にこそ、家族や友人同士といった本当に信頼のできるチームで協力して生活を遂行する必要性を感じる。仲間割れや揉め事をしている場合ではもはやないのだから。
外出制限やそれに伴う罰則に対する罰金リストなども施行された。そこでの行動制限も基本的に家族が単位になっている。
「家族」という単位についても考える機会がどうしても増える。
外出制限下では、自動的に在宅の時間が普段よりも圧倒的に長くなる。その際に、自分の居場所が確保できるかどうか、というのはもはや死活問題だ。
ホームオフィスをしていて思うのが、同じく在宅の子供との時間のやりくりなのだが、こちらは恐ろしいほど細切れになる。もはやざっくざくのみじん切り状態。Zoomで会議していようが何をしていようが、背景に入ってきたり、部屋の外から奇声が聞こえてきたりする。
非効率限りない状態なのだが、子供との関わり合い方についても考えざるを得なくなる。
こんな風に、普段あまり考えなかった家族や子供、仕事、住空間などについて改めて色々と考えさせられているところだ。
コロナ禍によって多かれ少なかれ、これまでの予定を狂わされる人がいるかと思う。どうか吉と出ますように。自分のことも含めそう願わずにはいられない。