言葉としてのウイルス 〜Wort als Viren〜
意味のあるような、そうでないような言葉の羅列の中を今日も何となく彷徨っていたら、とても惹かれるテキストに出会った。
ネット上の一期一会というものだろう。
かつてビート世代の作家ウィリアム・バロウズは言語を「宇宙からやってきたウイルス」と評したことがあるが、言葉というウイルスはときに現実のウイルスよりも急速に、社会を蝕んでいく。
内なる敵と負の祝祭 – 震災とコロナウイルスのあいだで 福嶋亮大
しかもこの記事では2011年の震災とコロナウイルスについての言及がなされていた。最近、同じようなことをHBO製作による「チェルノブイリ」という全5話からなる海外ドラマを見ながら感じていたところだったのだから不思議なものだ。
チェルノブイリ
チェルノブイリと聞いて連想するのは、今でも「原発事故」だったり「黒い雨」だ。当時は日本でも放射能反応が出て、雨が降ったら傘をさした方がいいらしいよ、などとクラスメートと話した記憶がかすかに残っている。
1986年4月26日未明に冷戦下の旧ソビエトで人的ミスによりチェルノブイリ原子力発電所で爆発が起こった。
西側諸国に虚勢を張るために当時のソビエト政府の幹部は事態をなんとかして隠蔽しようとしていた。その状況下で被害の拡大を抑えようと現場に入って苦悩していた人々がいた。
それは何も知らされていなかった地元の消防隊員であったり、炭鉱労働者であったり、兵士だったりした。
そんな中にも甚大な事故の原因をある程度持ちうる知識から予測し、事態を出来るだけ効果的に収束しようとした専門家や科学者たちの存在もあった。
大きな危険の前では「知らないこと」そのものが「死」に繋がる。
単純だが曲げようのない事実である。「知らないこと」イコール「存在しないこと」に繋がり、原発事故がただの火災に、高度な放射能を含む灰が無害で綺麗な雪のように見えてしまうからだ。
こうして知らされなかった、そして知る手段を持ち得なかった近辺の住民は放射能の汚染で胎内に宿っていた命や子供を失い、自分たちの寿命を縮め、現場で消火活動に当たっていた消防隊員の多くは苦しみながら亡くなってしまう。
コロナウイルス
では、同じようにその実態が見えにくい今回のウイルスについてはどうだろうか。
最初の感染者に関する情報の隠蔽はなかったのか。開示された情報は正しいものだったのだろうか。
SNSなどでデマや間違った情報が独り歩きしてはいなかっただろうか。冒頭にあげた「言葉のウイルス」によって対応が遅れるようなことはなかったのか。
恐らくそういうこともあっただろうということは簡単に予測できる。残念だが、過去から余り学んでこなかったのが人間だからだ。
今回のコロナウイルスによる世界的なパンデミックで各国の対応の差が目に見えたことは示唆的だと感じる。
平時だと余りはっきりとは見えない政府の根本的な考えや政治家の資質などが浮き彫りにされてしまうからだ。そして、国の上層部がソビエト時代の幹部のように無能であれば、多くの死者が出る。ここまで端的に言っていいのかは別として、恐らくはそういうことなのだろう。
メディアやSNSに溢れるデマなどに踊らされることなく、信用のできる一次情報に当たる必要があるのはこういった大きなリスクを回避するには絶対不可欠の行動なのではないかと思う。
必要な情報を自分から得る習慣を身に付けたいと今回の件で改めて感じた次第です。後は不安にかられることなく、マイペースで日々の生活を送り、手洗いうがいを徹底することくらいかな。
ドラマ「チェルノブイリ」直視するのが辛いシーンが多々ありますが、見るタイミングとしては今ではないかと感じます。