久しぶりのフォルクスビューネ。
劇場の中に足を踏み入れて驚いた。開演10分前だというのにいつもの活気がない。バーやフロアでガヤガヤと立ち話に花を咲かせている人々がいない。ホール入り口付近で開演を待ちわびて行列を作っている人々の姿もない。
そして、いざホールに入って2度びっくり。幕も降りていて、きちんとした普通の劇場に様変わりしていたからだ。カストロフのフォルクスビューネは観客席を取っ払い、コンクリートを敷いて傾斜を付け観客はそのまま直に座ったり、長時間公演の際はビーズクッションを敷き詰めて客席にしたりと観客席も含めたホール全体が舞台装置になっていた。
「ここってこんなに狭くて窮屈だったっけ!?」というのがデルコンのフォルクスビューネに対する第一印象だ。
開演5分を切ったところで、間違いなくカストルフ時代からフォルクスビューネにいたと思われるモヒカン頭の劇場の女性スタッフが「自由に席を移ってください。後列の方は前に移動してください。」と後方の観客に声を掛けた。そのくらい空席が目立っていたからだ。前の方に詰めて、やっと前から8列目くらいまでが埋まるくらいだろうか。
さて、ベケットの三部作。1本目のNicht Ichでは、演出効果のため非常灯を含む全ての照明が落とされ、文字通り真っ暗闇の中、虚空にぽっかりと浮かぶ真っ赤な口がかなりのスピードでモノローグを紡ぎ出していくというスタイル。
ドイツ語のテンポが速いのと、演出なのだろうが途切れることなく延々と続くモノローグ、視界に入るものは暗闇に浮かぶ口ばかり。変化がないので途中でモノローグを理解しようと努力することを放棄してしまう。内容はある女性の過去とそれに伴うトラウマのようなもの。
2本目のTritte。舞台は相変わらず暗いままだが、白のドレスで身を包んだ俯き加減の女性ひとりによって、舞台の前方を9歩進んでは折り返し、また9歩進んでは折り返すという動作が延々と続けられる。彼女は自身の中にふたつの声を持っており、どうやらそれは年老いた母とその娘らしい。
3本目のHe, Joの囁きかけるようなペースダウンした女性の声で意識が遠のいてしまった。
ベケット作品の人物は何かに囚われている。過去に囚われている女性に、出口のない状況を自分の頭の中に作り上げている女性。そして、トラウマを抱えているのであろう男性。声には抑揚がなく、全体的なトーンも暗い。
正直に白状すると、シアターで寝落ちしたのはこれが初めてだった。
なぜか?もちろん、ドイツ語の理解力の問題もあるとは思うが、一貫して観客を置き去りにする演出にその理由があるのではないか。デルコン氏がプログラムに敢えて反カストロフ的な作品を持って来たのかどうかは知る由もないが、あの巨大なシアター空間を敢えて真っ暗にすることで、フォルクスビューネ独自の空間の広がりを消し、登場人物はたったひとり。舞台上でのダイアログすらなく、一方的なモノローグのみで観客とのインターアクションなども論外な演出だったのだから。
ベケットの三部作を観れたのは別として、フォルクスビューネでなくとも、例えばギャラリーのビデオインスタレーションとしてでも良かったのではないか。特に1本目はヘッドフォンをしながら映像を見る方がもっとセリフがダイレクトに入ってくるように思えた。
とまあ、この日は70分ほどであっさり終わった上演に半ば拍子抜けして劇場を後にしたのだった。あの妙にワクワクさせられる一体感に覆われていたフォルクスビューネが懐かしい。