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Straßenbilder / 通りの名前から見える風景

ツイッターでとても興味深い記事が流れてきたので、紹介したい。ツァイト紙によるドイツ国内の通りの名前についての特集である。
よく使われる通り名:79,4%

確かに日頃、頻繁に耳にする名前ばかりだ。
人物や出来事を想起させる通り名:19,6%

人物名の通りが思いの外、割合として少ない印象を受ける。

ベルリンに住んでいる間に、東独時代の通り名が壁崩壊後、何年か経ったのちに改名される、ということを何度か経験した。東ベルリンのプレンツラウワーベルク地区にあるデミトロフ通り(Dimitroffstraße)がダンツィガー通り(Danziger Str.)になったのも記憶に新しい。デミトロフはブルガリア共産党書記長から取られており、続くダンツィガーは都市名のダンツィヒ(ポーランドのグダンスク)がその由来である。タイトルの写真は現在のエヴァースヴァルダー駅に当たる。
もうひとつ、以前ベルリンで撮影した写真が出て来た。下の2枚の写真は2002年までレーターシュタット駅(Lehrter Stadtbahnhof )と呼ばれていた駅が中央駅として使われることになり、それまで東ベルリン側で「中央駅=Hauptbahnhof」の役割を果たしていた駅が「東駅=Ostbahnhof」に変わった頃の写真である。

名前が変更されるだけではない。開発後に道路が整備されたポツダム広場には新たな通りが何本も作られた。ルドルフ=フォン=グナイスト=ガッセ(プロイセン時代のドイツの法学者で政治家)やガブリエレ=テルギット=プロムナーデ(作家・ジャーナリスト)など、いまだにまだ余り馴染みのない通り名だ。93年に旅行者として初めてベルリンを訪れた際には、広場にまだ壁の残骸が立っていて地下鉄への階段とその入り口のみががらーんとした空き地に立っていたことを思うと感慨深い。
ベルリンに住みたいと思ったのも、街のど真ん中に広大な空き地が広がっているというギャップに惹かれたといっても過言ではないので、ポツダム広場の開発予定地にソニーの看板を見た時になぜかとてもがっかりしたのを覚えている。
道の名前と地理関係のわかる記事内のいくつかのグラフィックを載せておこう。

DDRの通り名の代表としてカール・マルクス通りが挙げられるが、この名前は旧東ドイツエリアに通り名や広場名としてまだ473と数多く残されている。

驚くべきことに、国家社会主義時代の通り名の代表としてパウル=フォン=ヒンデンブルクが挙げられているが、旧西ドイツ側になんと438の通り名や広場名として存在している。この人物、アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権樹立への道を開いた張本人である。
もちろんアドルフ=ヒットラー通りやヘルマン=ゲーリング広場などは姿を消したが、西ドイツ側にはいまだにナチ党に関連する通り名が残されていることが分かる。

中でも面白かったのが、オーストリアの作曲家モーツァルトがドイツ人作曲家を差し置いて堂々たる一位の座を確保していること。ドイツ人はどうやらモーツァルトが好きらしい。

とまあ、こんな風にこの特集サイトではインタラクティブなグラフィックも多数あり、たかが通り名、されど広場名とネーミングから歴史や文化、自然など多岐にわたる解説がなされており、とても興味深い内容となっている。
自分の住んでいる通り名がドイツ国内でどれほどの頻度で使用されているのかを調べる検索マシーンも搭載されているので、一度試してみてはいかがだろう。我が家の通り名は13という結果でありました。
*本文に使用したグラフィックは全てdie Zeitの特集ページhttps://www.zeit.de/feature/strassenverzeichnis-strassennamen-herkunft-deutschland-infografikより借用しています。
*タイトル写真はGerd Danigel , ddr-fotograf.deより借用しています。

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