当時はまだワーキングホリデー制度もなかったので、語学ビザで入国したものの、大学入学までの期間として1年半の猶予しかなかった。当初は1年で帰る予定だったのでそんなことも露知らず、語学学校でたまたま一緒になった日本人の知人から、語学学校ビザは期限付きだと聞いて慌ててドイツ語の勉強を本格的に始めたような気がする。
相変わらず、はっきりとしたビジョンもなかったわけだ。
ロシア人ネットワークの中にいたドイツ人ジャーナリストの知人が、私について記事を書いたことがきっかけで、ある日突然、面識のない人から電話が掛かってきた。
「記事を読んで興味を持ったんだ。Büro Friedrichというプロジェクトを立ち上げるんだけど、うちで働いてみない?」
ドイツ語の大学入学資格試験に何とかギリギリ受かり、ロシア語学科に通いだした頃だったろうか。これまた記憶があやふやではあるが、とにかくドイツ語の読み書きもままならない状態態だったのは間違いない。ただ、面白そうな誘いを断る理由もないので、とにかくそのBüro Friedrichとやらに行ってみることにした。
コンテンポラリー・アートの展示を企画する非営利団体。オランダ人のキュレーター、Waling Boersは期限付きでフリードリヒ駅からすぐの空きスペースをその束の間の存在自体も含め、ギャラリースペースとして借りることにしたようだ。
初回展覧会のタイトルは“Place to stay”。やれやれ、今回もまるで自分に投げかけられた問いのようなタイトルではないか。
ベルリンに来てからというもの、「出会いはギャラリーから。」というフレーズが脳裏に浮かぶくらい、ギャラリーとはなぜか縁があった。 Café Zapata (Tacheles), Akademie der Künste, Milchhof, Galerie Berlin Tokyo etc. そこで新聞にもそこでのエピソードが掲載され、それを読んだWalingは私がアーティストかなにかだろうと勘違いをして電話をしたんだそうだ。
ビジネスレベルのドイツ語はさっぱりだったが、できる範囲(間違いなくお荷物なレベル)でアシスタント業務をやってみることにした。プラクティコム(見習い実習生)というやつだ。
ギャラリーのアシスタント業務。今なら言葉の面で何ら問題なさそうだが、当時はドイツ語でメールを書いたことすらなく、決まり文句の“Sehr geehrte Damen und Herren”さえあやふやだった。電話で作品に必要な材料をオーダーするにも詳細情報を口頭で伝える必要があるが、こちらもしどろもどろ。東京やモスクワのギャラリー情報をピックアップしてまとめたことは覚えているが、結局、何がどう助けになったのか今でもさっぱりわからないし、細かな仕事内容がほとんど思い出せない。ただ、Walingに「あちこちキョロキョロしないで、何か一本に絞った方がいいよ。」と助言されたことだけは覚えている。
この頃はモスクワとベルリンを行ったり来たり、側からみていると全てが中途半端でどっちつかずだったんだろう。そして実際問題、日本で培われたこれまでの常識が総崩れし、何をどうして良いのかさっぱりわからず、ただただ途方に暮れていたように思う。
ベルリンにいてもモスクワにいても、常に自分は「ゲスト」でしかなく、境界線上をぐらぐらしているような心許ない感じが常にあった。そして、90年代のベルリンにはいずれは姿を消すであろう、仮のスペースが無限にあり、数多くのユートピアが出現しては消えていくという不思議な魅力があった。
これがいつまでも続かないことは、誰もがぼんやりとどこかで感じていたのではないだろうか。
Walingは現在、北京の798芸術区とNYにギャラリーを構えているようだ。相変わらず嗅覚の鋭い人なのだろう。ベルリンのアートシーンは彼にとって既に面白みがなくなってしまったのかもしれない。