最近、カメラを意識して持ち歩くようにしているが、今日はそれが功を奏した日だった。娘のドイツのパスポートを受け取りに、普段は滅多なことでは行かないフリードリヒスハイン地区へ。家を出たタイミングがギリギリすぎて、アポの3分前に役所に到着する羽目になった。そして、こういう時に限って待ち時間もゼロ。用事が珍しくあっという間に終わったのだ。
せっかく普段は足を運ばないエリアに来ているのだから、少しその辺をブラブラしてみよう。カメラをわざわざ持参していると、こういう思考回路になりやすい。カバンからカメラを引っ張りだして、その辺をグルッと歩いてみる。ザマリータ通りは地下鉄5番線の駅の名前でもあるのでよく耳にする通りだ。
その通りをまずは北上してみる。途中でカラフルなアパートや不法占拠アパートらしき建物を見つけた。そういえば、2021年の6月にこの辺では有名な、リーガ通りにあった不法占拠アパートの立ち退きがニュースになっていた。確かそこにかなり前に住んでいた知人もいたような。もう当時のあま細々としたことは覚えていない。今日はリーガ通りを歩くことなしに、なんとなくそのまま北へ行ってしまったが、立ち退き後にどうなったのか改めて見てみるのもいいかもしれない。このリーガ通り(Rigaer Str.)は、ラトビアの首都、リーガから取られているのだそうだ。
実は、パスポートを受け取るついでに、近くにあった寂れた写真館で、ずいぶん前に撮影されたであろうネガフィルムを現像に出した。現像には1週間以上かかるらしいのだけれど、値段も高いわけではないし、何年も放置されていたフィルムに何が写っているのかとても気になる。もしかすると最後にモスクワで撮影したものかもしれないし、そうでないかもしれない。今はSONYのαを使っているけれど、その前にはNIKON D80を使っていて、そのもうひとつ前にはNIKON F50で撮っていた。アナログカメラを使っていたのは2000年以前のはず。そんなに長い間、放置されていたネガが綺麗に現像できるのかどうかは謎なんだけれどフィルムに何が写っているのかとても楽しみだ。ニコンのD80を久しぶりに触っていたら、何か撮りたくなったので今はバッテリーを充電しているところである。
話をザマリータ通りに戻そう。真っ直ぐに歩いて大通りに出たら、目の前に大きなスーパーが見えた。REWEというチェーンのスーパーだが、古い倉庫のような建物に入っているらしい。地図を見て、ハッと思い当たった。
ここって確か、以前は屠殺場だったところでは?
これまたずいぶんと前になるが、一度この屠殺場について別ブログに書いたことがあるのを思い出したのだ。
Storkower Strasseという駅名は1970年半ばまではZentralviehhof(中央家畜収容場)という名前だった。そのZentralvieh- und Schlachthof(中央家畜収容場及び屠殺場)がこの場所に作られたのが1881年のことだ。
なぜこのような長い陸橋が作られたのかというと、歩行者が近くの住宅地(見取り図の下方にあるEldenaer Strasse沿い)に辿り着くために危険でないとは言えない屠殺場を横切る必要があったためだ。陸橋から屠殺場が見えない様に外が見えないガラスが取り付けられた。「都心に住む未成年者に良くない影響を与えかねないため。」というのが1936年当時の架橋省のコメントである。この陸橋、1977年には最長505mにまで延長され、ヨーロッパ最長の陸橋になったのだそうだ。
自分のブログを引用するのも不思議な話だが、たまたま見つけた長い長い陸橋が強く印象に残る場所だった。残念ながら、無用の長物になってしまった陸橋は一部を残し、撤去されてしまう。上の見取り図で、駅の線路の上と住宅地とを繋いでいた陸橋が示されている。RVと記されている建物では牛肉の販売が行われていたが、今ではサイクルショップに姿を変えている。
東独時代にもこのエリア一帯は精肉工場として機能していたようだが、長い陸橋は荒れ果てたひどい状態だったのだろう。そのため、「長い嘆き」や「長い不幸」などという不名誉な名前で呼ばれていたのだそうだ。
下のモノクロの写真はベルリンに来たばかりの90年代中頃に撮影したものだ。確かに延々と続き先の見えない陸橋にふさわしいネーミングだ。
カメラを持っていたおかげで、ベルリンという街の変化を目の当たりにした1日となった。