Arbeit im Ausland / 海外で就職
2000年12月からドイツとの間で開始されたワーキングホリデー制度のおかげで、18歳から30歳までの人が海外に出て色々な経験を積むためのハードルが大きく下がった。
95年にベルリンへ来た時は、まだそんな自由度の高いビザもなかったので大学を卒業したての私は在り来りの手段を使って仮ビザを申請した上で渡独した。
目的は「留学」で、まずはそのための「語学習得」のためのビザという形である。
語学学校へ通っている間は就労は不可、1年半以内に大学入学のためのドイツ語テスト(DSH:Deutsche Sprachprüfung für den Hochschulzugang)に合格できなければ帰国、という縛りの多いビザである。
逆にそれがあったから、ドイツ語を学んだようなものだ。追い詰められないと勉強できない性分なのである。
ドイツのテストで多いパターンだと思うが、この大学入学資格を得るためのDSHというドイツ語のテストは2回まで受けることが可能だった。2回目で失敗すれば、そこで詰んでしまう。
1回目はギリギリで落ち、後がない2回目はギリギリで合格した。ギリギリだろうがなんだろうが合格は合格だ。本当に危なかった。
晴れて語学ビザから学生ビザに切り替えられたが、特に確固とした目的がなかったので、席の空いていたロシア語学科・ドイツ語学科・ジャーナリズム学科を専攻することに。
興味のあった美学はNC(Numerus clausus)、要は人気学科のため席が空いておらず、推薦状なども書いてもらったものの入ることができなかった。
「ベルリンに住みたい」「街を知りたい」という理由でやってきた私には正直、どの学科でも良かったのである。
日々の生活を送るには最低限の生活費が必要なので、その当時は可能なことは全てやった。
- 日本食レストランでバイト
- 日本学科の学生向けの日本語チューター
- 語学学校で日本語教師
- 友人の経営するクラブで寿司販売
- オランダ人キュレーターの経営するギャラリーでバイト
- 通訳
当初1年の予定だったベルリン滞在だが、1年など何も達成できないうちに終わってしまい、日々変化するベルリンが面白くて日本に帰りたいとは思わなかった。
金銭面で不安があると精神的に多大なダメージを食らうが、そういう経験をベルリン滞在初期の数年で何度も味わった。無計画すぎたので当然の報いである。
クラファンもなければ、ツイッターもなく、そもそも日本人がまだまだ少なかった。それでも知り合った日本人に自分の状況を正直に話すと、「考えが足りない。」「何の目的もないってどういうこと。」と直で説教されたり、半ばバカにされたような記憶がある。
「私はもっと苦労した。」「ちゃんと目的意識を持たなくてはやっていけない。」だったかな?あまり覚えていないが、目上の人にはそんな風に度々怒られた。
せっかく日本を出たのに、また型にはめようとする人がいるのはちょっと悲しかったが余り気にはしていなかった。苦労はしたい人がすればいいし、人それぞれやり方が違う、くらいのことはぼんやりと感じていたからだ。
どうしてベルリンに来てまで他人に構うのだろう。放っておいてほしかったのだ。
ひとつはっきりしていたのは、キャリアを追うのであれば初めからベルリンには来ていなかった、ということに尽きる。
「普通に」大学在学中にスーツを着て就職活動し、大学卒業後に内定先の会社で働き、会社で学べることを学んでスキルアップをする。
全然悪くない。逆に給料をもらいながらスキルを学べるなんて今から思えば最高である。ドイツのように専門性を求められることもないので、割と誰にでも興味のある分野を開拓できる可能性がある。
ただ、大学在学中から「ここではないな。」という違和感しかなく、サークルなどにも全く興味も湧かず、中・高一貫教育の実験的な学校よりもつまらない授業内容にがっかりし図書館で本ばかり読んでいた。
大学生活が余り魅力的ではなかったために、自ずと海外に目がいくようになる。そして、在学中に旅先で出会ったベルリンに惚れ込んでしまったのが運の尽きだったのだろう。
不思議なことだが、日本で常に感じていた違和感のようなものが剥がれ落ちた、とでも言おうか、ベルリンでは次から次へと興味深い人たちに出会えた。
当時の自分には「どこかしっくりくる。」というその感覚こそが何よりも大切だったのだと思う。アウェイではなくホーム。
気付いたら「就職」の話からはほど遠くなってしまった。これもまたある意味、象徴的である。