Fussball-Tournament und DriveNow / 遠征試合とカーシェアリング

今日は久しぶりにDriveNowを利用する必要に迫られた。いつもなら土曜日のサッカーの試合が例外的に日曜日のトーナメント試合に化けたためだ。

相方はすでに入院中の母親のお見舞いに行くことになっており、車が出せなかった。ハンブルクから義姉も合流するので尚さらである。

そして、運悪くトーナメント試合がこれまたベルリン郊外のKarowという場所だった。それどこ?と思われた方も多いと思うのでグーグルマップを貼っておこう。

ミッテからだと車で約30分、Sバーンの最寄駅はBerlin-Buchである。市内から45分くらいはかかる。

息子の週末のサッカー遠征はこんな風に、ホーム試合以外はこれまでに足を運んだことのないような遠いところまで出かける必要に迫られるのだ。

通常は相方が車で市内のあちこちで行われる試合に連れて行くのが常なのだが、今回は私がやむなくその役を引き受けることになったわけだ。

「ママと車で行きたい!」

やはりそうくるか。久しぶりだし、練習も兼ねて乗って行くことにした。

「Karow?ちょっと遠いよなぁ。。果たしてここはエリア内なのかな?」

ちらっとそんな考えもよぎったが、とにかく目的地を目指すことにした。

日曜日のお昼過ぎ。チャイルドシートが付いている車がなかなか家の周囲で見つからない。週末は子連れで出かける家族が多いということなのだろうが、カーシェアリングはそもそも子連れに優しいサービスではないのである。

運良く出かける15分前に徒歩5分の距離に適した車が見つかった。慌ててそこまで移動して車を見つけるが、なんと大通りの工事現場枠内にしれっと停められていた。

「ママ!あんなとこに停めたらあかんやんな。」

そう思うぞ。しかし、そのお陰で間に合いそうなので良しとしておこう。

グーグルマップを頼りにどんどん北上する。それに伴って、景色はどんどん旧東エリアを実感させるものに変わっていく。ベルリンのPankowを出た辺りから、これはややこしいことになりそうだ、と実感。

トーナメント試合の会場には時間通りに着いたのだが、団地内のスポーツ施設だったため、駐車場も整備されておらず現場は出たり入ったりする車で大混雑。そこでまず心が折れるが、親切な男性に助けられて何とか車を所定の場所に収める。

そこで、レンタル終了ボタンを押すが以下の表示が。

X パーキングエリア外にいるため、レンタルを終了することができません。

「あーあ。やはりそうくるか。ここまで苦労して停めたのに、出るのも一苦労じゃないか。。終わった。」

というのが正直な感想だ。仕方がないので、カスタマーサービスに連絡を入れて、パッケージ契約に変更できないかどうか聞いてみることにした。

息子は無事にチームに合流し、すっかり試合モードになっていたのと3時間くらいの予定だったため、車のことを解決するのに十分な時間があったわけだ。

カスタマーサービスの女性曰く、「3時間のレンタルでは間に合わないと思うので、6時間になってしまいますね。その場合は55ユーロですが、エリア内に移動してそこでレンタルを終えればそれよりは安く済みますね。申し訳ありません。SバーンPankow-Heinersdorfまで移動し、そこから数駅戻ってもらえますか。どうされます?」

Pankow-Heinersdorf、それどこ?という具合だが、20分ほど南下したエリアのようなので、仕方なく戻ることにした。これも経験。実地練習。グーグル先生は容赦ないので、途中で一部高速に乗らされたり、住宅街の狭いクネクネした道を走らされたりと神経がすり減ってしまう。そこで、ようやくSバーンの駅併設のPark+Rideエリアに停めレンタル終了ボタンを押したところ、再度この表示が。

X パーキングエリア外にいるため、レンタルを終了することができません。

どうやら、Sバーン沿いの反対側からパークエリア圏内らしい。ここでさらにダメージを受け、HPが限りなくゼロになった状態で何とか反対側の道路沿いに停車し、何とかレンタルを終えることができた。

DriveNowは市内をちょっと走るのには快適なサービスだが、間違ってもエリア外に出てはいけない、ということを徹底的に叩き込まれた。

恐ろしいことに、まだ続きがあって試合会場に戻るSバーン。S8は途中で曲がって西側のCエリアへ。S2は数駅で試合会場最寄駅のBerlin-Buchへ行くのだが、もちろんHP0の私は見事にS8に乗ってベルリンの最果てにたどり着いたのである。

Mühleから始まり、mühleで終わるこの駅。反対側のホームから帰ろうとしたが、ホームが見当たらない。列車を待つ人ふたりに確認したが、どうやら単線で戻ってくる列車に乗るように言われた。単線のSバーンが存在するとは知らなかった。

なぜか徒歩検索

そんなわけでもう会場に戻れないんじゃなかろうか、と3度目に心が折れるが這々の体で試合会場に戻れた時は軽く感動すら覚えたわけである。息子の出場した試合も何とかひとつは見ることができた上、爽快なシュートを放っていたので全て丸く収まった、ということにしておきたい。

Überwindung von Schwächen / 苦手克服

少し重いテーマが続いたので、今月突然始まった「苦手克服週間」について報告しておこうと思う。

昨年の12月に「2018年を振り返って」という投稿をしているが、そこでも

  1. 苦手なことを克服

という項目を立てている。具体的にはジョギングと車の運転だ。ジョギングはありがたいことにほぼ生活の一部に組み込まれ習慣化するのに成功した感がある。得意になったというレベルではないが、継続できているので良しとしよう。

さて、車の運転の方はどうだろう。実はベルリンで免許を取得したのが2003年。映像制作会社に入社した翌年に持っておいた方が何かといいだろう、と思い一応免許は取っておいたのだ。

ドイツでは教習場という区切られた場所での練習がなく、なんと最初から路上運転。これには正直かなりびっくりした。高速道路を150キロで走ったり、夜間に国道を走ったり、色々やった記憶がある。

しかし、免許取得後に知り合いが「壊してもいい車だから乗っていいよ。」といって貸してくれた車が今から思えば全ての元凶だった。VWの赤いゴルフ。友人が中古で確か600マルクで買ったとかいう代物だった。

こんな感じの車だった

これがすごい車で、普通に走っていると黒煙は出るは、タイヤはボコボコ、ドアがきちんと閉まらないので隙間風が入って寒い、というあり得ない状態だった。それでも動くだけマシだろうと諦めて、車大国ドイツでは到底考えられないような車と格闘する羽目になってしまった。

なんだか乗っていると不安になる車だったので、そのボロ車を自力で修理屋まで持っていった。「うーん。これはひどいな。よくこんな状態で乗ってましたね。タイヤがもう限界ですよ。というか、これ以上乗らない方がいいかも。」と言われた。やはり。タイヤは即交換。

そんなある日のこと。とても寒い日だった。性懲りもなくそのボロ車に乗って走っていたら、恐ろしいことがおこったのである。寒すぎてフロントガラスに霜が降りて前が見えなくなった。ドアに隙間があってヒーターが効かない車に乗るとこうなる。

はぁ!?なにこの車!

信号が赤の間にフロントガラスを布で拭うものの、走り出すとまた同じことが起こる。その辺に車を放り出して帰るわけにもいかず、ほぼ半泣き状態で家にたどり着いた。

さすがに怖かったので、「寒すぎて前が見えなくなったから冬にはもう乗れない。返すね。」と友人に引き取りにきてもらったのを覚えている。返した時には2度くらいどこかでぶつけていたように思うが、もはやスクラップ行きの車だったのだろう、特に何も言われなかった。

それらの恐ろしい経験もあり、車にはそれからとんと見向きもしなくなった。モスクワでもあれだけボロい(ひどい状態)の車で走る人はいないんじゃないかと思う。寒いだけで走行中にフロントガラスは曇らないはずだ。

はっきり言って初心者にボロ車はハードルが高すぎる。滅茶苦茶である。生きててよかった。

とまぁ、相変わらずよくわからない車デビューを飾ったわけだが、テレビの撮影の仕事ではロケバスを運転する専門のドライバーがつくし、そもそもアクセスのよいところに住んでいたため通勤も電車1本で20分強。車を買う必要性も感じなかった。

そのまま今日に至ったのだが、「車の運転は死にかけるし怖い。」という恐怖が、どうやらボロ車体験で植え付けられてしまったようなのだ。

子供ができてから車が運転できた方が楽だ、というシチュエーションが増えてもなかなかペーパードライバーを克服できなかったのである。

なんだか思い返すと、自分で自分が可哀想に思えてきた。

「今年ももうすぐ終わる!これではいかん!」となぜか先月末に突然思い立ち、息子が水泳教室で泳いでいる間にプールの向かい側にあった教習所に何も考えずに飛び込んだ。いつもはがっちり閉じられている扉もなぜかその日は全開。暖かい気持ちのいい日だったのだ。

すると、いとも簡単に教習の予約ができてしまい、先週からいわゆるAuffrischungskurs(リフレッシュコース)という免許は持っているが実際にはほとんど運転していない人のためのコースを始めることになった。

「免許は16年前(!)に取ったんですが、全く乗ってなくて。まずは5回くらい乗って様子をみたいんですが可能ですか?」

なんだ、もっと早く初めておけばよかった、と軽く後悔するくらい手続きは簡単だった。先週に1時間半、今週は昨日と今日で3時間。残り後2回である。

これまでの感想:普通の車だと運転するのもそれほど怖くはない

Jobcenter / ジョブセンターの悲劇

労働局やジョブセンターについては実はずいぶん前から書こう、書こうと思いつつ書いていなかったネタだ。

あくまでも個人的な私の経験を以下、記しておこうと思う。

2002年からほぼ10年間勤務した職場を第二児妊娠を理由に解雇(あくまでも表向きは希望退職という形)されて辞めることになった。

さて、どうしたものか。当時は希望退職という形で労働局(Arbeitsamt:現Bundesagenture für Arbeit)に失業保険を申請する場合は手当を3ヶ月カットされてしまうからだ。

ここは正直に解雇になった理由と経緯を書面で先方にきちんと伝えることにした。

こちらの説明が正当な理由として認められ、結局失業保険3ヶ月分をカットされることは免れたのを記憶している。

長女がまだ4歳、長男が2歳になったばかりで育児に振り回される日々の最中、非常に煩雑な手続きだったことを覚えている。

とにかく、週に20時間のオフィス勤務から全く別の生活リズムに慣れることが先決だったのだが、手のかかる小さな子供達の育児で全くもって手一杯だった。

正直なところ、二人目の妊娠によってこれまでの職場を解雇される、というのが自分の中でなかなか気持ちの上で割り切れなかった。

今になって振り返ってみると、10年(も)勤務したタイミングで退職できて本当に良かった。恐らく会社というものはそういうものなんだと思う。

しかし、その当時は妊娠したために解雇になった、という流れに「結局、実際に妊娠や出産をしなければならない女性の方がこれまでの職場を放棄し生活の変化を余儀なくされてしまうのか。」という思いが先に立ってしまった。

そして、労働局というかジョブセンターの対応には心底がっかりした。なぜか。

失業保険が給付される必要条件として、労働局管轄のジョブセンターに定期的に出向して現状報告をするという義務が課されていた。

とにかく再就職の意思を見せておかないと色々とまずいことになるような感じなのである。

細かなやりとりまでは残念ながら余り記憶していないのだが、「再教育プログラム」なるものを受講すればその間は失業保険が延長して給付されるということらしく、どういった内容のコースがあるのかについて相談を受けたことがあった。

一言でいうと、担当者の言っていることがトンチンカンで全く役に立たなかったのである。

仕方がないので、自分で色々と調べた挙句、家から自転車で通える距離にあるコースを半年だけ受けてみることにした。

英独ビジネス翻訳講座、正式名称は忘れてしまったが、とにかくビジネス英語とドイツ語を一度に習えていいだろう、という安易な考えで選んだコースである。

朝の8時から午後13時までの週5回を半年間。これだけ聞くと、なかなか良さそうではあるが、実際に通ってみてすぐにこう思った。

「時間のロスでしかない。」

やる気のないコース受講者にやる気のない講師。これに尽きた。免除される受講料は数千ユーロ。全くもって税金の無駄遣いである。

ただ、全てのコースがだめなはずはないので、運が悪かったのだろう。ただし、ジョブセンター絡みの再教育コースに関する良い噂は余り聞かないのも事実である。

極端な話、この時間にブログをきちんと書いたり、独学でプログラミングでもやった方がよっぽど何かの足しになったに違いない。当時は残念ながらそういう考えには至らなかったのだから仕方がない。

それでも、結果として失業保険が半年延びたのだから良しとせねばなるまい。

とにかく子供達が最強に手が掛かる時期だったので、ゆっくりと考える気力や体力もなかったのだろう。想像力も欠如していたようで、キタへのお迎え時間までに終わるコースで自分にも何らかの見返りがある内容のものとして絞り込んだ結果だった。

もし、就職して失業するようなことがあれば、失業保険はしっかりと申請し、1年なり1年半なり次に繋がる何かを自分なりに見つける時間を確保するのがいいのではないかと思う。

気の利いたアドバイスはできないが、ジョブセンターの言うことは鵜呑みにしない方がいい、ということだけははっきりと言っておこう。基本的には自分でリサーチした上で経験者の意見を取り入れつつ判断を下すのがベストかと思う。

結局、1年半ほどの失業保険の後はフリーランスとして、メディア全般のコーディネートを中心に仕事を始め、今に至っている。

子供達も大きくなってきたので、そろそろ並行して、他のプロジェクトにも着手したいと考えているところだ。

 

Google AdS / グーグル先生に翻弄される日々

2018年の年末に突然思い立ち、Wordpress.comから右も左も分からない状態でグーグル検索(この頃はまだエコシアを知らなかった)を頼りにグルグル目が回るくらいに調べ倒してのサイト移行

WordPress.comとWordpress.orgの違いも大して分かっていなかったのだから、よくやってみようと思ったものだ。

今となっては、もはや何をどうやったのか細かいことをほとんど覚えていないので、「Wordpress.comからエックスサーバーへの移行手順」というようなお役立ちサイトが書けないのが残念である。

こういったお役立ちサイトは数多く存在するのだが、情報が古すぎたり、自分の解決できない点が記載されていないなど、なかなか欲しい情報が見つからなかった。

拾い集めた情報を元にほとんど感覚的にそれっ!という感じで、かなり雑なやり方をしたように思うので、よくデータが飛ばなかったものだと自分でも感心してしまう。

データを移行する、とは言っても物(データ)を一旦ダンボール箱に入れて、別の場所(サーバー)に移すという感覚なので、サイトのレイアウトが崩れていたり、リンク先が機能しなかったりと一筋縄ではいかない。これもスマートに引っ越しをする方法ももちろんあるに違いない。

便利なプラグインなどを利用すれば、リンク先をまとめて変更することも可能だったようだが、これまたひとつひとつ全て手作業でやってしまった。

時間と労力の無駄とはまさにこのことだ。

移転に伴うSEO対策も完全にはできず、移転したことでほぼゼロからのスタートとなってしまう。SEO対策や評価についてもググり倒して疲れてしまった。

旧ドメインはすぐに消さず残しておいたのだが、このせいでグーグルのアドセンス審査で2度も弾かれてしまいかなり凹んでしまった。

擬サイトだとグーグル先生に判断され、かなりdisられたのである。「内容が薄いサイト」だの「規約をよく読んで訂正しろ」だの散々だった。

どこをどう直せばよいのかわからず、ふと旧ドメインを解約することに。そして、そのままの状態で再度アドセンス審査にトライ。全く同じ内容で2日後にあっさり通ったのである。

これで落ちたら、もう無理だな。と思っていた。自分のサイトに広告を貼るのは読みづらくて嫌だな、と考えて行動に移さなかったのだが、ここまで苦労して審査に通ったので大目に見ていただけると本当に嬉しく思う。

貼り付け方もよく分からなかったが、二日ほどグーグル先生に聞いて、何とか反映することができた。記事の上と下に広告が表示されていると思う。

毎日更新も途中で数日抜けることはあったが、今日で103日目。グーグル先生に振り回されることなく、日々精進しかない。少しづつ分かってくることもあるだろう。

自分で調べて考えて解決する、というプロセスは時間も気力も削られて大変だけれど、それで学ぶことも多い気がする。

Самогон/ サマゴンでの失敗

何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、気付いたら大晦日があまり好きではなくなっていた。

1999年から2000年への年越しはなぜかロシアのプスコフ近辺にある辺鄙な場所で過ごすことになった。

2000年になると同時にコンピュータシステムに異常が生じ、社会を混乱させるのではないか、と懸念された2000年問題というのが浮上した年だ。

「プスコフにダーチェがあるから、そこで年越しパーティーをしよう。」

プスコフなんてもちろん聞いたこともなければ、どこにあるのかすら分からない。

仕方がないのであまり考えず、取り敢えず着いていくことにした。

列車に揺られた後は、徒歩にヒッチハイクである。ドイツ人も散歩が好きなので、「ちょっとその辺まで散歩しよう。」と言われて着いていくと、ハイキング並みに歩かされる羽目になったりすることがある。

それをもっと大幅にスケールアップすると、ロシア人の「ちょっとそこまで。」になる。国が大きいせいだろうか、ロシア人たちは意図も簡単に移動する。

今から思えばプスコフはモスクワからずいぶんと離れていたのだ。当時はグーグルマップなどという便利なものはなかった。

着いた場所はダーチェがポツポツと6軒ほど立っている集落で、モスクワの友人知人など顔見知りがたくさん集まっていた。

暖をとるには外で薪割りをし、かまどに焼べる。自家発電装置は盗難にあっていたので、夜にはガスランプの明かりを頼りに生活をする。

大晦日の晩はСамогон(サマゴン)、いわゆるСам(自分で)、Гнать(蒸留する)=自家製のウォッカが出てきた。

ソビエト時代はウォッカが手に入りづらく、自分たちで密造酒を作っていたのでその名残なのだろう。

さて、そのサマゴンとやら、アルコール度が75%ほどらしく、一口舐めただけで口の中が大惨事になる。

あまりにも大所帯で周りはロシア人だらけ。少し酔っていたのだろう、泊まっていた自分たちの小さなダーチェにふと帰りたくなった。

とにかく静かな場所で眠りたかったのだろう。

雪のかなり深い森の一本道をフラフラしながら歩いて、何とかダーチェにたどりついた。

かまどの火がほとんど落ち、小屋の中が寒かったので薪を足し、そのままひっくり返って寝てしまった。

ふと気がつくと、ダーチェの前の雪の積もった上に放り投げられていて、何人かの顔が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「なんでこんなところにいるの?」

とかなりボーッとした頭で尋ねると、かまどに焼べた薪が湿っていたらしく、小屋が煙で充満していたのだそうだ。

危うく一酸化炭素中毒になるところだった。

そうでなくともプスコフで遭難して行方不明にでもなっていたら確実に凍死していただろう。

ロシアの見知らぬ場所で命拾いをした。


Поспорт, пожалуйста! / モスクワでの失敗談(2)

現在のモスクワの事情は分からないが、95年〜2001年までベルリンとモスクワを行ったり来たりしていた時期には、外国人としてモスクワを歩いているだけで身分証明書の提示を求められることが多かった。

これまたおかしなことに週末になると、その頻度が目に見えて上がるのだ。

2001年にはひょんなことからモスクワの医療クリニックで働くことになり、ベルリンでロシア学科を専攻していた繋がりで、ベルリンの外国人局には「インターンとしてモスクワで働く」というつじつま合わせが成立。モスクワのクリニックを通してマルチビザを発行してもらっていた。

マルチビザを持っていると、ビザ有効期間中は何度でもモスクワを出たり入ったりできるので非常に便利だ。

パスポートにマルチビザが貼ってあり、もちろん違法滞在でもなんでもないわけである。それにもかかわらず、モスクワの警察官に捕まると理由をでっち上げられて罰金を払え、と言われることも多々あるとモスクワに住む外国籍を持つ知人友人は口を揃えて言った。

実際、私も何度かそういう目にあったが、そこで払ってしまうと今後モスクワに来る日本人に迷惑が掛かると思い、向こうが何を言おうとこちらの正当性を譲ったことはない。

さて、ある日のことだ。その日はアメリカ人の同僚と確かタガンカ劇場に行った帰りに赤の広場を横切っていた時のことだったように思う。

Поспорт, пожалуйста! (パスポートを見せなさい!)

警官がふたり向こうからこちらに向かって歩いてくる。

なぜだか知らないが、突然日頃のクリニックでのストレスやその他諸々の理不尽なできことの積み重ねで、このシチュエーションに我慢ができなくなったのである。

海外生活あるある、というか一瞬にして全てがアホくさくなる瞬間がまさにこの時だった。

Нет, спасибо!(いいえ、結構です!)

冷静に考えればロシアで警官に対して「いいえ、結構です。」が通じるはずもないのであるが、何を思ったのか同僚のアメリカ人をその場に置いてさーっと退散してしまった。平たく言えば、走って逃げたのである。

背後からはまさかの反応に遅れを取った警官の大声が飛んでくる。

Стой!(止まれ!)

周りのロシア人には何事かとジロジロ見られるなか、さっさとメトロに乗って家に帰ってしまった。

気の毒なのはその場に残された同僚のアメリカ人ドクターだ。

電話をして確認をすると、2時間ほどあーだこーだと取り調べのようなものを受ける羽目になったらしい。

パスポートも見せず、踵を返してトンズラするような連れと歩いていたのだ。怪しいと思われても仕方ない。

ロシア人の友人にこの話をすると、「警官に止められて走ってその場から逃げたりするのは一番だめ!撃たれたりしたらどうするの!?」と言われた。

やれやれ。野蛮過ぎるだろ。

何が失敗なのかというと、いつもお世話になっていた年配のアメリカ人ドクターをある意味囮にし、自分だけさっさとその場を退散したこと。結果、彼に多大なる迷惑を掛けたことである。本当に申し訳ないと思っている。


Warum gerade ich? / なんで私が?〜エジプトで遭難しかけた話

93年に初めてベルリンに旅行者としてやってきた時、Uバーンの2番線はまだ壁の二重に走っていたポツダム広場で断ち切られていた。壁の撤去もまだ全部終わっていなかった頃だ。

95年に1年住んでみるつもりで戻ってきたときには、U2の開通記念でアレキサンダー広場駅には”Warum gerade ich?”というテーマで展示が行われていた。

Warum gerade ich?

当時は右も左も分からなかった。街の中心にがらーんとした空き地が広がり、独特の空気が流れていたベルリンに惚れ込み、ただ住んでみたくてやってきただけだった。何をすればいいのか皆目見当も付かなかった。

ワーホリ制度もなかったので、一番の近道は大学留学を目指す、語学留学生としてビザを申請するという方法だ。

大学で英米文学学科で、たまたま第二外国語はドイツ語を先行していたが、まさかそのドイツにやってくることになろうとは。

生活のため、ビザ延長のためにドイツ語学校に通い、1年半以内に大学入学資格テスト(DSH)に受かる必要があった。

しかし、当時のベルリンには誘惑が多すぎた。

90年代といえば、ベルリンのいわゆるアングラシーン絶世期。毎日、どこかで誰かがアクションを起こし、訳の分からぬ熱気があった時期である。シークレットパーティーが連日、街のあらゆる隙間で行われていた。

結果、毎日寝不足→翌日遅刻、の繰り返し。

ドイツ語学校は文法がさっぱりだったのにもかかわらず、少し話せるというだけでなぜか中級コースに入れられてしまい、案の定全くついて行けなかった。

コース終了後、授業料の安い語学学校に変わり、大学で語学試験を受けるが2点足りずに不合格。

毎日、街を歩き倒し、ろくに勉強もしなかったので当然の結果である。

ドイツの試験は2度までしか受けられない、というのが鉄則。

次の試験で合格しなければ滞在許可の延長も叶わないだろう。まさに崖っぷち状態。

さて、どうするか。

煮詰まっていた時に、シリア人の同居人に「そんな時は気分転換した方がいい。」と誘われ、8歳の子供と一緒になぜかエジプトの砂漠に行くことになったのである。

テスト前だというのに、完全な現実逃避がいとも簡単に実現したわけだ。

その頃、家族のようにお世話になっていたドイツ人の「兄」は「これを一冊読んでおけば大丈夫。」とポール・オースターのMusik der Zufallsをポンッと手渡してくれた。

後が全くないというのに、大好きなポール・オースターの著書を一冊字面を追ってなんとか読み、試験勉強は終了した。

カイロではシリア人の友人の住む、ナイル川に浮かぶハウスボートに泊まり、ベドウィン族であった友人のオーガナイズするツアーに参加する形で白い砂漠へ向かった。

周辺には宇宙か!?というような不思議な形状の石や化石が散らばり、きのこの形をした石灰岩のようなものが出没していた。(残念ながら手元にそれらの写真が見当たらないので、見つけたらアップしようと思う。)

周りにはそれこそ砂漠と砂漠の上を吹く風くらいしかない。

ふと気が付くと、耳の奥でピーンという音以外、なんの音も聞こえなくなった。
どうやら道に迷ったようである。

これはまずい、落ち着け。

じっとその場に立ち止まり、三角座りをして耳をすます。
何分くらい経ったのだろう、向こうのほうからかすかに人の声のようなものがとぎれとぎれに聞こえてきた。

声の聞こえてきたと思われる方向に向かって、早足で歩く。

ドイツ語のテストが例えダメでも死なないが、砂漠で迷うと死ぬ。
単純なことだ。

紅海でシュノーケリングをしたりして、ベルリンに戻り大学入学資格のためのドイツ語テストにはギリギリで合格した。

滞在許可も2年延長することができ、大学に入学届けを出す必要があったので、ロシア語学科、ドイツ語学科、ジャーナリズム学科を専攻することに。

そして、またベルリンを歩き倒す日々が始まったのである。