Erich Kästner / エーリッヒ・ケストナー
“Bin sehr fröhlich, wieder mal in diesem Radaunest zu sein”
1926年の夏にエーリッヒ・ケストナーが母親に送ったポストカードに書かれていた言葉だ。当時からベルリンは「喧騒の巣」だったわけだ。
ドレスデンで生まれ、ライプチヒで仕事をしていたエーリッヒ・ケストナー(Erlich Kästner/1899-1974)は1927年にベルリンに移ってきた。
彼の有名な児童小説には「エミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」、「飛ぶ教室」などがあるが、彼の著書は日本語にも多数翻訳されているのでご存知の方も多いだろう。
そんなケストナーの軌跡や小説の舞台を今でもベルリンで追うことができる。
エーリッヒ・ケストナーに縁のあるベルリンについてまとめた「Kästners Berlin」の著者ミヒャエル・ビーナート(Michael Bienert)はケストナーについてこう語っている。
ケストナーのように鋭く、険しく、まっすぐな作家は当時の文学やメディア市場には存在しなかった。
鋭利な詩人の当時のベルリンを知りたい人はビーナートの著書に必ず行き当たる。彼ほど、ベルリンのケストナーの軌跡を執拗に追っている人物はいないだろうから。
ケストナーを知ることで、新鮮で斜に構え、かつ覚醒した視線でベルリンを新たに知ることができる。
ビーナートの言う、ケストナーの視線とやらがとても気になる。
ケストナー通の彼は学生や観光客、文学好き向けにガイドも行なっている。
当時はまだ存在しなかったヴィルマースドルフ区にあるシャウビューネ劇場の並びにはコメディアン・キャバレーがあり、ケストナーの行きつけのCafé Leonも同じ建物内にあった。
ケストナーが「エミールと探偵」を執筆するのに利用していたCafé Carltonもニュルンベルガー広場にあった。このカフェのことをケストナーは「才能の待合所」と呼んだそうだ。
ベルリンのカフェで仕事をするスタイルは何も今のノマドに始まったことではない。ベルリンには文学カフェなど、当時の才能が集まる場所としてカフェが栄えていた街なのだ。
欧州のカフェ文化はこのように文化サロン的な要素が多分に含まれ、それが現代にまで引き継がれている気がするのでとても好きな場所のひとつである。
それでも近年の家賃高騰で昔から存在するカフェの存続が難しくなっていることも事実だ。西側で有名だったカフェ・クランツラーなども止む無く1階店舗を商業店舗に譲り、現在は2階のみでの営業となっている。
ドイツは古き良きものを大切にする国民性があるように思っていたが、最近のベルリンの開発状況を見ていると、それもかなり疑問である。
「エミールと探偵」に登場する広告塔(Litfasssäule)は残されるんだろうか。
話が逸れてしまったが、こんな風にベルリンを舞台に「自分が知っていることを書く」ことを実行したケストナーの軌跡を追ってみたくなった。
自由主義・民主主義を擁護し、ファシズムを非難していたことから、1933年にケストナーの著書は当時のナチス政権によって焚書の対象とされ、フンボルト大学の側にあるバベル広場で燃やされてしまう。ケストナーは自分の著書が焼かれるところをわざわざ見物しにいったという。
彼の友人であった「3人のエーリッヒ」のうちふたりエーリッヒ・クナウフとエーリッヒ・オーザーは1944年に逮捕される。
ケストナーは1944年にチロルに亡命するまで、ナチス政権下では匿名で著作を続けた。大戦後はミュンヘンで生活を送った。
参照記事:Frankfurter Rundschau: Auf Erich Kästners Spuren durch Berlin