何かと痛かった12月(来年のための覚書)
昨年の今頃は何をしていたのだろう、と思いカレンダーを見たらハンガリーのブダペストにいたことに思い当たった。
そうか、クリスマス2日目にもうベルリンからブダペストに向かっていたんだ。
そんな風に自由に移動できていたのがたった1年前というのが信じられないくらい、今年の1年でそれはもう色んなことが激変した。
ブダペストに向かっていた頃の私はどうだったかと言えば、心に抱えるものが邪魔をしてほとんど眠れなくなっていた頃だった。思い返すだけでも全身がどこかずっしりと重くなるような感覚を覚えるくらいに。
先日、ふとしたことで手に取った遠野遥の「破局」にこんな一節が出てきた。
心配事があって眠れないという話を時々聞くが、理解できない。考えなくてもいいことを考え、自分で自分の首をしめているだけではないか。
遠野遥『破局』
以前の自分なら「そうそう。」と共感して特に気にも留めなかったであろう一文。しかし、実際に眠れなくなる、という経験をするとこんな風に簡単には片付けられない事象なのだということが身に染みてわかる。
それまでは、他人のことや自分のことでくよくよ悩んだりするのは馬鹿馬鹿しい、考えたところでどうせなるようにしかならないのだから、とあまり考えずに行動してきた。心配事で眠れなくなる、ということが一体どういうことなのか単に想像できなかったのだ。
だから、この遠野遥という作者の描く主人公の「陽介」もまだそういう経験がなかっただけのことなのだと思う。
ただ、一つ言えることは、そんなに簡単に割り切ることができないような出来事が起こり得る人生もある、ということだ。
普段でもあまりよく眠れなかった日は目に見えて調子が悪くなるほど、割と睡眠の良し悪しがその日の気分に影響を及ぼすタイプだと思う。そんな人が何日も、そして何週間もきちん通して眠れなくなるとどうなるか。答えは簡単で、食欲衰退、身体の具合の悪化、それに伴い精神的な脆さの露呈など、何ひとついい事なんてなかった。
不調時の身体のサインを見逃すなというが、よく眠れなくなった結果、高熱を出して丸二日うなされた挙句、夜間にトイレに行きベッドに戻ろうとしたら立ちくらみがして色んなところを強打する羽目になった。
不眠なんて本当にいいことがない。
とにかく、このままだと完全に鬱になるか病気になる、という危機感からベストではなかったのかもしれないがその時に自分にできる精一杯の選択をしたつもりだ。慢性の不眠症になる一歩手前だったのかもしれないが、時間をかけてまた普通に眠れるようになった。それでも自分の普段の状態に戻るのに半年くらいは掛かったかもしれない。
そんなわけで、2019年の12月もバッタリ倒れた時にあちこちを打ったせいでとても痛い思いをした。今年はもうそんなことないだろう、と油断をしたせいなのかは知らないが、やはり重いものを無理に運んだりして「魔女の一撃」にあい、やはり痛い年末を迎える羽目になっている。
不眠の辛さにはほど遠いが、ぎっくり腰もそれなりに辛い。
来年の12月はこんなことにならないよう、反省も込めた覚書のようなものを書いておこうとしたらこんな割と情けないブログになってしまった。
なんの参考にもならないかもしれないが、皆さんにはどうか痛い目にあわずにすむようなゆったりとした年末年始をお迎え頂きたい所存です。
私は3秒で眠れる人間だけれど、眠れない経験もしたことがある。普段すんなり眠れる分、睡眠不足の倦怠感悩まされるよりも、私に眠れないことがあるんだ!と言う現実に驚いた記憶がある。
そして、寝れるって幸せなんだなと気づかされた経験でもあった。日常って素晴らしいよね。
日常の素晴らしさは、それを失ってみて初めてわかる。そう思いました。