Spinnerei in Leipzig / ライプツィヒのシュピネライ②

前回の投稿で終えるはずだったのだが、シュピネライでの展示がとても印象に残ったので写真をメインにお伝えしようと思う。

Maix Mayer – bildarchive 35
ein figur / grund-problem.

シュピネライに着いたのが11時頃だったこともあり、まだ中に入ることのできるホールが限られていた。上の写真の展示や旧紡績工場の歴史に関するコーナーが設けられていたインフォセンターで、ホール14やゲルト=ハリー・リプケ氏のEIGEN+ART(アイゲン・アート)ギャラリーを勧められた。リプケ氏のギャラリーは1983年の4月にライプチヒの自宅で友人達にアートの展示会を開いたのが始まり。1992年にはベルリンのアウグスト通りに固定ギャラリーを開設。シュピネライのホール5には2005年に入っている。

ベルリンに戻る列車の時間まで2時間強しかなかったので、ベルリンで馴染みのあったEIGEN+ARTは今回は諦め、ホール14を駆け足で回ることにした。

Stefanie Rittler
Streetplastic, 2016

Stefanie Rittler
Streetplastic, 2016
Stefanie Rittler
Streetplastic, 2016
Ottonie von Roeder & Anastasia Eggers
Cow & Co, 2017
Studio Swine
Can City, 2013

Studio Swine
Can City, 2013
Benno Brucksh
Erde Wachsstift, seit 2017

Benno Brucksh
Erde Wachsstift, seit 2017
Benno Brucksh
Erde Wachsstift, seit 2017

幸運にも平日の開館時間すぐだったので、広い空間を贅沢に使った展示を貸し切り状態で観て回ることができた。このホール14の現代アートの展示、偶然にも水曜日は入場無料であった。

壁に組み込まれた本棚とアート書籍

次に行くときは展示を観た後は、ゆっくりと気になる本でも眺めてみたいと思う。EIGEN+ARTにも近々行ってみたい。

Spinnerei in Leipzig /ライプツィヒのシュピネライ

随分と時間が経ってしまったが、前回の続き。シュピネライ(紡績工場)のインフォーメーションセンターの奥に工場時代の様子が垣間見られる展示スペースが設けられていた。

興味をそそられる入り口。入ってすぐ横の壁には旧東ドイツ時代の写真が飾られていた。

この建物は先ほど歩いてきた道で見かけたものだろうか。DDR時代のFDJ(Die Freie Deutsche Jugend / 自由ドイツ青年団)のロゴが壁面に掲げられている。FDJは旧東ドイツにおける支配政党であったドイツ社会主義統一党傘下の青年組織で旧ソ連のコムソモールに相当する。青少年の教化、マルクス・レーニン主義の宣揚および共産主義的行動の促進が政治的目的であった。

自由参加というのは名目で、加入しない青少年は組織的な休暇活動への参加ができなかったり、高等教育・就職等の制限があったらしい。東ドイツ出身の義母も体育の教師になれなかったのはFDJへの加入を拒んだからではないか、という話をしてくれたことがある。

当時の様子が伺える静かな空間。古い工場跡というのは独特の趣がある。

コットン(綿)の需要が世界的に高まった19世紀に欧州で最大の紡績工場のビジョンを持った産業家が存在した。1884年に既に現在のホール20に当たる第一の紡績工場が誕生している。工場の発展は経済成長だけでなく、持続可能な方向性で進められた。シュピネライは当時から既にモダンな場所であったのだ。労働者のアパートや託児所、公園などを兼ね備えた街が街の中に生まれた。

ベルリンの壁崩壊後から数年、1994年には既に紡績産業の衰退によって使われなくなった一部のスペースにギャラリーや工房がいくつか入っていた。2000年に最後の製造ラインが行われたのち、広大な全敷地が売りに出されたのである。

現在のHalle 14
現在のHalle 14

「古い工場跡・若いクリエーター・東ドイツ」というキーワードでは銀行が見向きもしなかったのだそうだ。しかし、この場所の持つ独特の雰囲気やそのポテンシャルを信じて購入に踏み切った決断力は無駄に終わらなかった。

数年後には英国のガーディアン紙が「今、地球上でもっともホットな場所」というタイトルの記事で紹介するまでになったというのだから嬉しい限りである。

ベルリンからのアクセスも列車で2時間以内のライプツィヒ。また機会があれば今度はもう少しゆっくりと立ち寄ってみたい。

参考:http://www.spinnerei.de/gruendereuphorie.html
http://www.spinnerei.de/from-cotton-to-culture.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/自由ドイツ青年団

 

 

Berlin 1997 / 90年代のベルリン⑥

当時はまだワーキングホリデー制度もなかったので、語学ビザで入国したものの、大学入学までの期間として1年半の猶予しかなかった。当初は1年で帰る予定だったのでそんなことも露知らず、語学学校でたまたま一緒になった日本人の知人から、語学学校ビザは期限付きだと聞いて慌ててドイツ語の勉強を本格的に始めたような気がする。
相変わらず、はっきりとしたビジョンもなかったわけだ。
ロシア人ネットワークの中にいたドイツ人ジャーナリストの知人が、私について記事を書いたことがきっかけで、ある日突然、面識のない人から電話が掛かってきた。
「記事を読んで興味を持ったんだ。Büro Friedrichというプロジェクトを立ち上げるんだけど、うちで働いてみない?」
ドイツ語の大学入学資格試験に何とかギリギリ受かり、ロシア語学科に通いだした頃だったろうか。これまた記憶があやふやではあるが、とにかくドイツ語の読み書きもままならない状態態だったのは間違いない。ただ、面白そうな誘いを断る理由もないので、とにかくそのBüro Friedrichとやらに行ってみることにした。

Bürofriedrich97
当時のフリードリヒ駅

コンテンポラリー・アートの展示を企画する非営利団体。オランダ人のキュレーター、Waling Boersは期限付きでフリードリヒ駅からすぐの空きスペースをその束の間の存在自体も含め、ギャラリースペースとして借りることにしたようだ。
初回展覧会のタイトルは“Place to stay”。やれやれ、今回もまるで自分に投げかけられた問いのようなタイトルではないか。
ベルリンに来てからというもの、「出会いはギャラリーから。」というフレーズが脳裏に浮かぶくらい、ギャラリーとはなぜか縁があった。 Café Zapata (Tacheles), Akademie der Künste, Milchhof, Galerie Berlin Tokyo etc. そこで新聞にもそこでのエピソードが掲載され、それを読んだWalingは私がアーティストかなにかだろうと勘違いをして電話をしたんだそうだ。

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BÜRO FRIEDRICH 1997

ビジネスレベルのドイツ語はさっぱりだったが、できる範囲(間違いなくお荷物なレベル)でアシスタント業務をやってみることにした。プラクティコム(見習い実習生)というやつだ。
ギャラリーのアシスタント業務。今なら言葉の面で何ら問題なさそうだが、当時はドイツ語でメールを書いたことすらなく、決まり文句の“Sehr geehrte Damen und Herren”さえあやふやだった。電話で作品に必要な材料をオーダーするにも詳細情報を口頭で伝える必要があるが、こちらもしどろもどろ。東京やモスクワのギャラリー情報をピックアップしてまとめたことは覚えているが、結局、何がどう助けになったのか今でもさっぱりわからないし、細かな仕事内容がほとんど思い出せない。ただ、Walingに「あちこちキョロキョロしないで、何か一本に絞った方がいいよ。」と助言されたことだけは覚えている。

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CLUB SCREW / David Powell 1997

この頃はモスクワとベルリンを行ったり来たり、側からみていると全てが中途半端でどっちつかずだったんだろう。そして実際問題、日本で培われたこれまでの常識が総崩れし、何をどうして良いのかさっぱりわからず、ただただ途方に暮れていたように思う。
ベルリンにいてもモスクワにいても、常に自分は「ゲスト」でしかなく、境界線上をぐらぐらしているような心許ない感じが常にあった。そして、90年代のベルリンにはいずれは姿を消すであろう、仮のスペースが無限にあり、数多くのユートピアが出現しては消えていくという不思議な魅力があった。
これがいつまでも続かないことは、誰もがぼんやりとどこかで感じていたのではないだろうか。
Walingは現在、北京の798芸術区とNYにギャラリーを構えているようだ。相変わらず嗅覚の鋭い人なのだろう。ベルリンのアートシーンは彼にとって既に面白みがなくなってしまったのかもしれない。