Gelerie berlintokyo / 90年代のベルリン⑦

去年だっただろうか、娘をピアノ教室に迎えに行った際、同じく子供を迎えに来たのであろう見知らぬ父親に声を掛けられた。「あれ?どこかで会ったことない?」

記憶を掘り起こすのに数秒かかったが、その人物こそ、当時まだ開発が進んでいなかったHackescher Höfeから目と鼻の先に”Galerie berlintokyo”を立ち上げたラファエル・ホルゾン(Rafael Horzon)だった。1996年のことだ。

ベルリンのミッテ地区がまだ開発の波に飲まれる前のRosenthaler Straße。以前は「小さな地下の体育館」だった場所に、アートギャラリーでもなく、日本とは直接何の繋がりもない”Galerie berlintokyo”をイニシエーター、経営者としてスタートさせた人物である。

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ギャラリーでの初展示では実在しない日本人アーティスト、Masahiro Sugimotoの作品として自分の使っていたトースターを展示販売したんだそうだ。CaptainHoney Suckle Companyもこのスペースでパフォーマンスや展示をしていた。

ラファエルの企てはキャッチーなネーミングと90年代のベルリンの持つツァイトガイストに見事にハマり、Vogueが„Der modernste Keller Europas“「欧州で一番モダンな地下室」と紹介し、カッセルで5年に一度開かれる大型現代美術展Documenta X からも声まで掛かる羽目に。

「このギャラリーが単なる『ギャラリー』のひとつになってしまうなんて、何か違う方向に進んでいるとショックを受けたのです。」とラファエルは自伝“Das weiße Buch”の中で述べているそうだが、彼はこの件をきっかけにGalerie berlintokyoからさっさと手を引いたのである。

当時から引き際が潔いというか、時代の波に乗るのが上手い人だというイメージがあった。かなり前からTor Str.にMobel Horzonという不思議なスペースがあるのだが、どうやらこれも彼の多くの企てのひとつのようだ。

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LOGO / MOEBEL HORZON

まさかあのガラーンとしたスペースに白い本棚が立っているだけの場所が、ラファエルと関係があったとは。。前を通るたびに感じていた違和感の正体はこれだったのか。相変わらず恐るべしコンセプトの持ち主である。

東ドイツのテイストを彷彿とさせる微妙なデザインと配色のロゴに店構え。もはや展示ルームですらない不思議な空間に、やけに洗礼された真っ白な本棚だけが無造作に置いてある。スタッフの姿を見ることもほとんどないが、なぜか主張が強い。

どこまでが冗談でどこまでがビジネスなのか本当につかみどころがないのだが、この人、会社をいくつも設立している。今でもやはり、ミッテの変化に軽やかに便乗しているというわけだ。

言葉のセンスもピカイチだし、ピアノ教室で再会したのも何かの縁なのでそのうち時間を作って頂いて色々とじっくり聞いてみたいものだ。

参考サイトその他:
タイトル写真はgalerie berlintokyo spielkreis 02 ’98から引用しています。

Berlin 1995 / 90年代のベルリン③

前回の続き。
偶然、道端でバッタリ出会ったイヴォンヌのWG(Wohngemeinschaft)アパートの一室に住めることになったが、他のルームメートはこんな感じだった。

  • キース:確かNY出身のアメリカ人で、ドラムプレイヤー。ソニックユースの欧州ツアーではステージスタッフなんかもしていたようだ。
  • ハイケ:ベルリン自由大学の生物学科専攻の学生。テスト前になると勉強ができる静かな環境を求めて、知人のアパートとWGルームを交換していた。テスト前は常に避難を余儀なくされていた気の毒な学生。

学生ハイケの存在は随分と助けになったものだが、右も左も分からないナイーブな私をちょっと小馬鹿にしたようなところもあったような気がする。

それも今から思えば致し方ないことだが、日本でも一人暮らしの経験がなく、突然ハードコアな環境に知らずに自らを投入してしまったことで毎日映画を見ているような感覚に襲われていたことは否めない(決して誇張ではなく)。

イヴォンヌは音楽活動をしながら、オラーニエン通りのこれまたハードな居酒屋Franken Barで週に何度か働いていて、仕事帰りの日はほぼ機嫌が悪かった。それも最悪レベルで。そして、何時だろうがお構いなく大音量でハードな曲を聴いたりもしていた。

はっきりと物を言うハイケとイヴォンヌはよくぶつかっていた。ただ、そんなハイケをイヴォンヌもどこかで認めていたように思う。

1995年から1996年にかけてはちょうど、彼女のバンドJingo de Lunchも解散の危機を向かえていたらしく、バンドメンバーとの衝突も激しかった時期だ。朝っぱらからF〇〇K!の連続だったし、いつ怒鳴られるかと共同のオープンキッチンでコーヒーもオチオチ飲めなかったのである。

そんな気性の激しい女性だったが、カリスマ性は抜群だったし、なぜかピチカートファイブや映画「たんぽぽ」のファンでもあった。

「もっと自分のルーツを大事にしなきゃだめだよ。」という彼女の言葉が今でもとても印象に残っているし、「あのおぼっちゃんタイプより、あっちのモスクヴィッチ(モスクワっ子)の方がソウルがあると思う。いいんじゃない?」と相談してもいないのに、助言をくれたこともある。

10年ほど、匿名性を求め静かに暮らすためにベルリン、そしてドイツを離れていた彼女だが、どうやらまたベルリンに戻ってきているらしい。そのうち覚悟を決めて連絡してみようかと思っている。Franken Barに行けば間違いなく会えるのだろうけれど。

タイトル写真:映画「たんぽぽ」のワンシーンより