Black Maria / ドイツ座で観劇

ベルリンでルネ・ポレッシュ監督作品が観たいと思っていたら、ドイツ座(Deutsches Theater)のプログラムで偶然、彼の作品を見つけた。

ドイツ座に一度行ってみたい、と思ってプラグラムを見たのだから偶然ではないのかもしれない。

Black Maria

そのタイトルだけでは何のことかさっぱりわからず。

Black Maria. ブラックマリア。1893年に世界初の映画スタジオはそう名付けられた。ブラックマリアという名は当時有名だった競走馬の名を取られている。その真っ黒な小屋はレールの上に置かれ、太陽光を追いかけられるように作られていた。また、小屋の屋根は太陽の明かりを取り込んだり遮ったりできるように開閉できるようになっていた。

ドイツ座の小ホールはその黒い移動撮影所でいっぱいだった。

A: Sichtbarkeit und Unsichtbarkeit sind nie symmetrisch. Das Privileg liegt eindeutig bei der Unsichtbarkeit. Man müsste so unsichtbar sein wie die weißen Typen. Und wenn Sichtbarkeit was wert wäre, wäre ich wirklich dabei. Aber es geht eher darum: unsichtbar sein wie weiße Typen. Ja, und natürlich versteh ich auch, dass ‘Sichtbarkeit’ sein muss, dass eine Haltung zugunsten des Sichtbarmachens in kritischer Absicht erfolgen muss, um für Gleichheit einzutreten, aber die dem ganzen zu Grunde liegende Asymmetrie bleibt leider bestehen.

DT / Programm / Black Maria

可視性と不可視性が対照的になることは決してない。特権ははっきりと不可視性の方にある。白人のように見えないようになる必要がある。そして、見えることに何らかの価値があるならば、私は本当にそちら側にいるだろう。。。

言葉の洪水。プロンプターの女性が舞台脇に常に控えるほどのテキストの量だ。訳したところで意味もあまりよくわからない。

いつもなら意味を追いかけて気疲れてしまうのだが、この日は言葉のリズムが心地よく思わずセリフを追いかけながら笑ってしまった。

役者同士の息もぴったりで、ある意味よほど頭が良くないとポレッシュの舞台は務まらないのだろうな、と感じた。

“Knacks!”

このフレーズが何度も出てきたが、引用元がわからずにいた。どうやら、スコット・フィッツジェラルドのThe Crack-Up(Der Knacks)から来ているらしい。フィッツジェラルドといえば、日本では村上春樹訳のグレート・ギャッツビーが有名だ。

劇中では語られなかったセリフではあるが、The Crack-Upからいくつか下に引用してみる。

“Of course all life is a process of breaking down

” The true test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind, and continue to function. “

とまぁ、底なしな感じの引用文であるが、まさにフィッツジェラルド曰く、「感情の枯渇」が彼を破滅へと導いたのである。フィッツジェラルドはアルコール中毒が原因で44歳でその早い死を迎えている。

Black Mariaは一見、ドタバタ劇なのだが、かなり辛辣なテキストが組み込まれている、仕組まれたカオス。コカイン手動吸引機のようなものが出てきたり、劇中劇が組み込まれていたり、ブラックマリアの壁が映画のスクリーンになったりもした。

カストロフほどのボリュームではないが、類似した雰囲気を持つ作品だった。

参照記事:Der Tagesspiegel / Seminar und Boulevard



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