Große Welle / 大きな波

今日は特にこれといったテーマがないので、自分の人生の中で何度か起こった「波」について少し書いてみたい。

大阪で生まれ、幼稚園に通っていたが卒園間近に奈良へ引っ越すことになった。賃貸マンションから一軒家へ。よくある話だ。幼稚園で朝礼台に上がって、全園児の前でお別れの挨拶をしたのを今でもよく覚えている。

そのまま、奈良の住宅地へ引っ越しをしたのだが、両親はそこで無理に幼稚園には行かさず、数ヶ月の間、毎日好きなように過ごすことができた。家の前がちょうど児童公園だったし、近くに畑も田んぼもあるようなところだ。

6歳になり、小学校へ入学。まだ開発されたばかりの住宅地だったのだろう。近所にはまだ小学校ができておらず、電車でひとつ向こうの駅にある歩いて30分くらい離れたところに1年生の間だけ通った。

いくつも団地の並ぶ坂を下り、もっと急な坂を下りると田んぼが左右に広がる。左手にもっと大きな田んぼが広がる車道を先へ行くと、大きめのスーパーが見えてくる。駅はもうすぐだ。駅の高架下を渡り、何百メートルか先にやっと小学校が見えてくる。

今から思うとかなり辺鄙な場所を30分もひとりで歩いてよく通っていたと思う。まだたった6歳だったというのに。そういう時代だ。後に、この田んぼ沿いの道で通学中の小学生が犠牲になる事件が起こっている。

2年生からはできたばかりの丘の上に立つ小学校に通うことになった。歩いて15分くらいだっただろうか。丘の上にあったので、階段を何段も上がる必要があった。

そんな奈良の家には引っ越しをしてから大学を卒業するまで、ずっと住んでいた。その家には15年くらい住んでいたことになる。

教育熱心な家庭の多い、どちらかといえば退屈な住宅地。近所には石垣に囲まれた家に住んでいるピアノの先生やコリーを何匹も飼っていた家もあった。隣の引っ越してきた住人は秋になると大きな木の落ち葉が散るといって、よく苦情を言ってきたものだ。

そんな家からなぜ、大学を卒業して全く縁も所縁もないベルリンに突然行こうと思ったのか今でもよくわからない。

魔が差した、としか説明のしようがなかった。「ベルリンに行かないと。」と半ば確信に満ちた予感がしたのである。

それがちょうど95年の4月だった。サリン事件や阪神大震災が立て続けに起こった年である。

日本で奈良の実家から大阪の大学に電車通学していたのだが、朝の満員電車も退屈な大学の講義も本当に嫌で嫌で仕方がなかった。大学で良かったのは図書館の本を好きなだけ読めたことだろうか。

当時はバブル時代真っ盛り。ボディコンやマハラジャのノリも全くピンと来なかった。大学生がブランドのバッグを持って通学するような時代だった。合うはずがない。Y’sが好きだったので、どちらかというと常に全身真っ黒。

そんな折、大学3回生の時に(専攻が英米文学だった)、アメリカには行っていたが、イギリスにはまだ足を運んでいなかったのでヨーロッパも見ておきたいなと思った。

イギリス各都市→アムステルダム→ベルリン→パリ→ベルリン→パリ

ロンドン着、パリ発のチケット。なぜかパリが全く肌に合わず、ベルリンにわざわざ列車で戻ったのである。

なぜなのか。93年のベルリンは底抜けに静かで暗かった。夏だというのに肌寒くさえあった。

ここは首都なのに何かが違う。

その異質な何かに強烈に惹かれたのだと思う。

恐らく93年のポツダム広場

そして、そのまま日本に帰ってもますます自分の居場所がどこにもないように感じた。何かが噛み合っておらず、常にずれているような。

それは恐らく幼少時からどこかで感じていたものだったようにも思う。小学校でも中高一貫の国立に行っても同じだった。それでも、型にはまった公立よりはまだマシだったのだろう。

居ても立っても居られなくなり、またベルリンに向かった。勘違いだったら困る、と思ったからだ。2回目のベルリンの印象も変わらず強烈なままだった。

英語圏に行くはずが、なぜか独語圏になってしまったのはそういうわけだ。

そして、独語圏にやってきたというのに、ロシアに行ってしまったのも説明のしようがない。

そういう説明できない大きな波が来る時が人生には何度かある、と思っている。

それがどこに自分を連れて行ってくれるのかは全くわからない。そういうものだ。

Vabali Berlin / ベルリンのスパ

長女の10歳の誕生日が明日だということは、結婚してから10年が過ぎたということだ。

結婚という形にそれほどこだわりがなかったので、出産間近に「空いていれば」式を挙げようか、と戸籍役場に足を運んだら係の人が親切で「予定日間近だけれど、ひとつ空きがありますよ。」と言ってくれた。

そんなわけで、戸籍役場で式を挙げたのが長女の出産4日前だった。

披露宴パーティーのようなものも出産間近だったのと、ふたり揃って「パーティーがしたい!」というタイプでもなかったことから結局、それ以降も何も企画しなかったのである。

とまあ、こんな風なのだが、相方が珍しくやる気(?)を出して結婚記念日10周年だから、とベルリンのスパに行くことを提案してくれた。

タイミング的にもロケ2本、取材1本を終えた後でフラフラだったし、リラックスできるのであれば助かる!ということで喜んでその提案に乗ることにした。

実は以前にも一度予約をしておいてくれたことがあったのだが、その時は長男が体調を崩し予約をキャンセルすることになってしまった。

相方の仕事の帰りも毎日遅く、私も出張が中心の仕事柄、なかなか二人でゆっくりと何かをする、という機会が持てない。

そもそも一人で行動するのが全く苦痛ではないタイプなので、暇さえあれば一人で行きたい映画やコンサートを見つければさっさと出かけてしまうのが私の性分。

相方としてはたまには一緒に何かをしたいのだろう。ドイツはどちらかというと、夫婦水入らずの時間を大切にする文化だと思うからだ。

それはそうと、今回はリベンジの形でベルリン中央駅の裏側にあるVabaliというスパに行ってきた。

相方は一度、以前の同僚から誕生日プレゼントとしてスパのデイカードを利用したことがあったのでその良さは既に知っている。

Vabaliは名前の通りバリ所縁の内装だが、その辺にあるようなキッチなものではなく、建築資材も現地から取り寄せられており落ち着いた気持ちの良い空間設計になっている。

外から見た感じではその広さが全く想像できないが、敷地面積も2万平方メートルとかなり広く、2階のテラスから周囲を眺めるとアジアテイストの屋根が木々に囲まれており、そこがベルリンだというのが信じられないような景色が広がる。

噂に聞いた通り、ロッカールームも男女共用で、温水プールやサウナ(バスタオルの使用可)も一糸まとわぬ姿での利用になるが、別に慣れてしまえば何ということはない。ドイツの裸文化とはそういうものなのだ。

ただし、館内を歩いている人たちはバスローブを着用しているので、FKK(ヌーディズム)のビーチなどに比べ「裸でなければならない」的な圧迫感があるわけではない。確か、このスパができたばかりの頃は館内全てがFKKだという話だったので、途中で規定が変わったのかもしれない。

Ruheräume

リクライニングチェアもここそこに設置されているし、午前中は比較的空いているので気兼ねなくゆったりと過ごせる。

「何これ、最高では!?」

今回は長男のお迎えの時間があっという間に来てしまったため、サウナを利用する時間は取れなかったのだが、また近々行って色々と試してみようと思っている。

クロイツベルクにあるハマムにも前々から行きたいと思いつつ足を運べていないので、また機会があればチャレンジしてみたい。

これからどんどん寒く暗い冬に突入するベルリン。

たまには日頃の疲れを取るために、ゆったりとした贅沢な時間を自分に与えてあげることも大切だ、と思った次第。

Day Spa Suite

ベルリンのVabaliオススメです。アロマオイルマッサージも受けてみたが、こちらも予想以上に本格的で良かった。是非お試しあれ。

館内で写真撮影が不可だったので、イメージ画像は全てVabaliのHPから借用しています。

Jobcenter / ジョブセンターの悲劇

労働局やジョブセンターについては実はずいぶん前から書こう、書こうと思いつつ書いていなかったネタだ。

あくまでも個人的な私の経験を以下、記しておこうと思う。

2002年からほぼ10年間勤務した職場を第二児妊娠を理由に解雇(あくまでも表向きは希望退職という形)されて辞めることになった。

さて、どうしたものか。当時は希望退職という形で労働局(Arbeitsamt:現Bundesagenture für Arbeit)に失業保険を申請する場合は手当を3ヶ月カットされてしまうからだ。

ここは正直に解雇になった理由と経緯を書面で先方にきちんと伝えることにした。

こちらの説明が正当な理由として認められ、結局失業保険3ヶ月分をカットされることは免れたのを記憶している。

長女がまだ4歳、長男が2歳になったばかりで育児に振り回される日々の最中、非常に煩雑な手続きだったことを覚えている。

とにかく、週に20時間のオフィス勤務から全く別の生活リズムに慣れることが先決だったのだが、手のかかる小さな子供達の育児で全くもって手一杯だった。

正直なところ、二人目の妊娠によってこれまでの職場を解雇される、というのが自分の中でなかなか気持ちの上で割り切れなかった。

今になって振り返ってみると、10年(も)勤務したタイミングで退職できて本当に良かった。恐らく会社というものはそういうものなんだと思う。

しかし、その当時は妊娠したために解雇になった、という流れに「結局、実際に妊娠や出産をしなければならない女性の方がこれまでの職場を放棄し生活の変化を余儀なくされてしまうのか。」という思いが先に立ってしまった。

そして、労働局というかジョブセンターの対応には心底がっかりした。なぜか。

失業保険が給付される必要条件として、労働局管轄のジョブセンターに定期的に出向して現状報告をするという義務が課されていた。

とにかく再就職の意思を見せておかないと色々とまずいことになるような感じなのである。

細かなやりとりまでは残念ながら余り記憶していないのだが、「再教育プログラム」なるものを受講すればその間は失業保険が延長して給付されるということらしく、どういった内容のコースがあるのかについて相談を受けたことがあった。

一言でいうと、担当者の言っていることがトンチンカンで全く役に立たなかったのである。

仕方がないので、自分で色々と調べた挙句、家から自転車で通える距離にあるコースを半年だけ受けてみることにした。

英独ビジネス翻訳講座、正式名称は忘れてしまったが、とにかくビジネス英語とドイツ語を一度に習えていいだろう、という安易な考えで選んだコースである。

朝の8時から午後13時までの週5回を半年間。これだけ聞くと、なかなか良さそうではあるが、実際に通ってみてすぐにこう思った。

「時間のロスでしかない。」

やる気のないコース受講者にやる気のない講師。これに尽きた。免除される受講料は数千ユーロ。全くもって税金の無駄遣いである。

ただ、全てのコースがだめなはずはないので、運が悪かったのだろう。ただし、ジョブセンター絡みの再教育コースに関する良い噂は余り聞かないのも事実である。

極端な話、この時間にブログをきちんと書いたり、独学でプログラミングでもやった方がよっぽど何かの足しになったに違いない。当時は残念ながらそういう考えには至らなかったのだから仕方がない。

それでも、結果として失業保険が半年延びたのだから良しとせねばなるまい。

とにかく子供達が最強に手が掛かる時期だったので、ゆっくりと考える気力や体力もなかったのだろう。想像力も欠如していたようで、キタへのお迎え時間までに終わるコースで自分にも何らかの見返りがある内容のものとして絞り込んだ結果だった。

もし、就職して失業するようなことがあれば、失業保険はしっかりと申請し、1年なり1年半なり次に繋がる何かを自分なりに見つける時間を確保するのがいいのではないかと思う。

気の利いたアドバイスはできないが、ジョブセンターの言うことは鵜呑みにしない方がいい、ということだけははっきりと言っておこう。基本的には自分でリサーチした上で経験者の意見を取り入れつつ判断を下すのがベストかと思う。

結局、1年半ほどの失業保険の後はフリーランスとして、メディア全般のコーディネートを中心に仕事を始め、今に至っている。

子供達も大きくなってきたので、そろそろ並行して、他のプロジェクトにも着手したいと考えているところだ。

 

Aufnahmeleiter / Koordinator / 撮影コーディネーター

珍しく仕事の話を少し。

今月はなぜか毎週のようにロケや取材が入っていて忙しい日々を過ごしている。毎日、制作会社勤めをしていた頃のような忙しさである。

ロケに行って洗濯をし、また荷造りして次のロケへ出る。

正直、今年前半はテレビ番組の撮影が数本入ったきり、後は小さな案件がちょろちょろ入る程度で閑古鳥が鳴いていた。

「いよいよ、営業しないと仕事が取れないな。」などと思いつつ、夏休みによく考えず帰国したのが嘘のようだ。結局、子供中心に動いたため営業もできなかった。

フリーランスというものは定期的に仕事が入るわけでもないので、このように先行きが見えない不安、というものを多かれ少なかれ感じるものなのだ。

会社にいた時はまだテレビ全盛の時代であったので、それこそバラエティーに富んだ番組の撮影を経験してきた。W杯にサッカーの取材、クラシックコンサートの中継から旅番組、情報番組などなど。

タレントがわざわざドイツまで来て海外ロケをする、というのも極めて頻繁に行われていた頃だ。

フランクフルトのボーリング場にスタジオセットを組んで撮影したこともある。その時は日本側とドイツ側のスタッフ総勢40人ほどを相手に仕事をしたが、あんな仕事はもう2度とやりたくない。

手配したクレーンが日本のものと違うと言われ、発注し直したクレーンからカメラマンが落ちるわ、撮影が長引きすぎてドイツ人の照明スタッフが途中で帰る、と言いだすわ。

まるでワガママまな幼稚園児を束にした相手と仕事をしているような現場だった。

某スポーツカーの撮影では300キロの車をヘリで追跡する撮影を行った。上下左右に振られ、危うく胃の中のものが全て出そうになったり。真っ青な顔でギリギリ着陸。

気球を使った撮影では風まかせで降りたところが畑のど真ん中で持ち主が飛んできて怒鳴られたり。

それはもう色んなことが現場では起こるのである。

会社を辞めてフリーになってからは、割と落ち着いた案件が多い印象だ。

気心の知れたクライアントさんや知人友人繋がりの仕事だからなのだろうが、時代の変化もあるのかもしれない。

最小限の機材に最小限のスタッフ。小回りが利き、無駄がない体制。ずいぶんと現場もやりやすくなっている印象を受ける。

ベルリン見本市でのカメラチーム

無駄がない分、一人当たりの負担は増えるわけだが、先日のベルリンとフランクフルトの見本市でもご一緒したカメラチームのほとんどがコミュニケーション力抜群でとても助かった。

ドイツ語や英語使いのクルーだと、間に割って入る必要がない分、進行がスムーズ。フランクフルトには以前から一緒に仕事をしているドイツ人音声と共に向かったが、日本からいらしたベテランカメラマンが英語で話してくれる、と嬉しそうにしていた。

コンパクトだが優秀な4Kカメラ

ドイツ人音声で日本のカメラチームに入ると、誰とも会話できないという状況も多々あるからだ。

そんなわけで、現場における自分の仕事は圧倒的に減ってしまったのだが、そこは割り切ってフードコーディネーターに徹してみた。

さすがビジネスの街フランクフルト。レストランのクオリティーはいたって高めの印象だ。

・ランチは時間のある時はラーメンにお寿司。それ以外は見本市会場でソーセージなど
・夕食はドイツ、イタリア、ベトナムに韓国レストラン

フランクフルト名物のGrüne Soße

どれも非常に美味しく、美味しいと翌日も楽しく仕事ができるというわけでいい感じに全行程を終えることができた。

寿司ランチ@岩瀬

ロケの食事は侮れない。

Seit wann bist Du hier? / ベルリン在住◯年

「ベルリンには何年くらい住んでいるんですか?」

何年だろう。気付いたら、もうかなり長くなっていた。

壁崩壊のニュースで脳内にインプットされたであろう街。当時、好きだったアーティストがベルリンについてコメントしていたり、ずっしりと心に響いた映画の舞台がベルリンだったり。何かと自分のテイストに近いイメージを持つようになった街。

「いつか行ってみたいなぁ。」が「ベルリンを歩いてみたい。」に変わっていた。

学生時代のひとり旅でそんなベルリンを実際に歩いてみて、「この街には何かある。」という確信に近い気持ちになったのを憶えている。

他の街にはなかった類の出会いが当時のベルリンにはあちらこちらに転がっていたからだ。それについては「90年代のベルリン」でも触れているので興味のある方は是非。

学生のステータスを得て、若干モスクワで回り道をしたものの、就職や結婚、出産を経て、気付けば割と長くベルリンに住んでいることになる。

初めから特にこれといった明確な目的があったわけでもなく、当時のベルリンの持つ独特の雰囲気に惹かれてちょっと住んでみたいな、といった程度の気持ちでふらりとやってきたのが始まりだ。

外国人局に英語で電話を掛ければ「Nein!」といって容赦無く切られ、一番初めに転がり込んだアパートの目の前がトルコマーケットという異国情緒溢れるロケーションだった上にシャワーすらなく途方に暮れたり。

今から考えると、とんでもない海外生活のスタートを切っている。

海外生活、しかも一人暮らしや赤の他人との共同生活がそもそも初めてだったので、「まぁ、こんなものか。」とすぐに色々と諦めがついた。

当時のクロイツベルクど真ん中。キーツ(特徴のあるエリア)でカルト的人気があるバンドの女性ボーカルに道で拾われたのだから仕方がない。知人繋がりだったのだ。

朝の3時だろうが5時だろうが、気にくわないことがあると爆音で音楽を流す同居人。彼女の御用達タトゥイストのリビング施術流血現場、バンド仲間とのニョッキパーティーetc.

極端なシェアアパートだが、今までの常識がこの街で通じるはずがない。

これまでの常識、といっても別に日本で「社会人」になったわけでもなく、大学を卒業して即ベルリンに来てしまったわけで、大した「常識」があるわけでもない。それでも自分のこうだろう、という範疇を超える日常は驚きの連続だった。

それまでは奈良という落ち着いた環境で鹿に囲まれて生活していたわけなので。

「郷に入れば郷に従え」とは言うものの、自分の周囲にはロシア人やカナダ人、アメリカ人にシリア人、フランス人にドイツ人。どこの何に従えばいいのかもよくわからない。距離感も付き合い方も違えば常識も違う。

そういう中に放り込まれると、自分は自分と割り切って自分のペースで物事を判断する他なさそうである。

そんなカオスな日々が数年続き、ひょんなことからモスクワでインターンする話が浮上し、そこからやっと現実的に物事を考えるようになってきた。

就職はそういう意味ではよかった。それが例えモスクワだったとはいえ。

モスクワの職場も日常もハードすぎたおかげで、ベルリンに帰ってきてから学生を続ける意味が完全にわからなくなった。生きるか死ぬか、みたいな現場から社会的に真っ当なドイツに戻ってきて拍子抜けしたのだろう。ようやく目が覚めた、とも言える。

生活するためには働かなければいけない。単純なことだ。

その流れで就職先が見つかり、そこで良くも悪くも10年間働くことになった。

結婚にも大して興味がなかったが、タイミングで出産数日前に婚姻届を出すことになった。妊娠中も働いていたので、妊娠していることに最後まで気付かなかった友人もいた。

それほど妊娠や出産からは程遠いと自分でも思っていたくらいなので、何だかおかしかったのを覚えている。

何が言いたいのかというと、ドイツに長く住んでいるとはいえ、失敗の方が多く、特に何かを築いたわけでも成し遂げたわけでもない、と言うこと。

だから、在住何年です、と答えて「すごいですねー。」と言われても何がすごいのかよくわからないし、基本的には話を合わせるための社交辞令だと思っている。

大阪阿倍野ハルカスより

ただ、長く住んでいて感じるのは、日本だろうがドイツだろうが、基本的な生活にはさほど違いがないという点だろうか。

朝起きて、朝食を食べ、子供がいるなら「いってらっしゃい」と送り出し、仕事を片付け、買い物をしたり、知人とお茶をしたり、映画を見に行ったり。

要は日々の生活において何に重きを置くか、によるのだと思う。

東京でバリバリキャリアを積みたいのか、自然の近いベルリンで週末をゆったりと過ごしたいのか。ドイツや日本のような国にはそういった些細な違いしかない。

住みたいな、と思えば一度住んでみて、違うな、と思えばまた移動すればいいのである。そういう意味では身軽なうちにあちこち移動して色々と見ておくことをお勧めしたい。

Geruchssensibilität / ニオイに敏感な日本人!?

さて、今日のお題は「ニオイ」。

ツイッターでも思わず呟いてしまったが、大阪から日本に戻ってきて補習校へ行くまでの道のりで感じたこと。

それは「臭い」。

地下鉄8番線の階段

地下鉄の階段を降りるとむわっと尿の匂いがするし、ホームにも似たような臭いが充満している。地下鉄に乗ったら乗ったで、蒸し暑い日だったのも手伝いクーラーの設置されていない車内は何とも言えぬ「臭気」が立ち込めていた。

長男も「ママ、ベルリンって臭いな。。」とぐったり。

ところが、ベルリンに限ったことではなく外国の公共交通網を利用したり、街を歩いていると似通った独特の臭いがしてくるものなのだ。パリの地下鉄も相当なものだったように記憶している。

アジア人は恐らく人種的に体臭がそれほどきつくないのだろうが、欧米人は日本人のそれとは比べ全体的に体臭が強い気がする。街にも様々な人種が歩いているので、それはそれは鼻腔に色んなテクスチャーの臭いが入ってくる。Geruchmix(ミックススメル?)といったところか。

普段から地下鉄やエレベーター内のトイレのような臭いには気が滅入っていたが、道を歩いていても銀行のATMを利用するために建物内に入っても、とにかく臭いが充満しているのにはさすがに閉口した。

逆にあれだけ人口密度が高い大阪駅の構内や各施設で臭いがほとんど気にならないのはなぜなのだろう。

消臭剤のCM

帰国時にテレビを見ていて一番驚いたのが、消臭剤のCMの多さだった。

とにかく、「部屋の気になる臭いに。」「脇下の汗の臭いに。」「スーツの上からでもスプレーできます。」など多種多様な謳い文句とともにありとあらゆる商品のCMが流れてくる。

いつも帰国が秋なのでそれほど消臭剤のCMを見かけなかったのかもしれないが、夏になるとこれほど消臭剤のCMが流されているのか、と仰け反ってしまうレベル。

そう言えば、ドラッグストアでも山積み商品が熱中症対策グッズと汗の臭い対策系だった。エアビーで利用したアパートにもなんとファブリーズが3つ以上常備されていた。

そこで初めて過去に一度、日本から来たカメラマンに「ファブリーズみたいなの、ドイツにもあります?」と尋ねられた理由が分かった。ホテルのベッドが臭うので使いたいんです、と確かにその人は言っていたのだ。

その時はファブリーズなど使ったこともなければ、聞いたこともなかった。しかし、スーパーに行って探してみるとほぼ同じ製品が見つかったのである。

え、ドイツにもあるんだ!?と逆に驚いた。調べてみるとこんな記述が。なるほどP&G製で各国展開の製品だったのか。

Febreze ist ein Geruchsneutralisierer des US-amerikanischen Herstellers Procter & Gamble.

Wikipedia

8x4

もうひとつ驚いたと言えば、日本でもかなり名の通っている8×4(エイトフォー)というデオドラント商品。こちらの発祥地がドイツだったのだ。

ドイツのバイヤスドルフが保有するが、日本では花王が製造・販売、ニベア花王が発売する。

1951年にドイツのバイヤスドルフ社がパウダースプレーの制汗剤として開発した。

商品名の「8×4」は発売当初に配合した有効成分「Hexachlordihydroxydiphenylmethan(ヘキサクロルジヒドロキシジフェニルメタン)」のつづりが32文字であること、またプロジェクト名の「B32」から「32=8×4」とネーミングされた。

ウィキペディアより

ポスターの写真を撮り忘れてしまったが、ベルリンの地下鉄の駅構内でポスターを見かけ「あれ?」と不思議に思ったのだ。

え、ドイツの化粧品メーカーが1951年に開発?日本では1974年にニベア花王とバイヤスドルフ社が技術提携して発売??ひょんなところでドイツが一枚噛んでいるものだ。

ドイツでも使う人はいるのだろうが、そもそも絶対数が日本とは比較にならないほど少ないのだろう。日本は商品のラインナップがとにかく多い。多すぎる。

ニベア花王のサイトより

Kunkun body

ところが、だ。なんとコニカミノルタから、さらに驚くべき製品が出ていた。

その名もクンクンボディ。ネーミングもすごいが、専用のマシーンとスマホアプリで自分の臭いをチェックできるという恐るべき代物らしい。

世界初ニオイ見える化チェッカー

出展:コニカミノルタ / Kunkun body

この製品、2017年12月に発売されたようだが売れ行きが気になる。

ここまでして自分の臭いを抑える努力をしているのだとしたら、会社員も大変である。

今頃、日本は夏日続きで暑さが厳しい時期だがニオイ対策よりも熱中症対策に力を入れて欲しい。そして、ドイツもそろそろ夏の暑さ(臭い)対策としてせめて公共交通網の車両にクーラーを常備してはいかがだろうか。

Zum Lesen motivieren / 読書習慣

我が家の子供たちを見ていると、自分が子供の頃の読書量とは比べものにならないほど自分から進んで本を読まない。

最近の子供にありがちなのだろう。じっくりと落ち着いて本を読む、という行為よりもYouTubeなどの動画を見ている時間の方が圧倒的に長い。

少し話は逸れるが、長女がお世話になっているピアノの先生とも「なぜ今の子供が楽譜を読めないのか問題」について度々話をしたことがある。

楽譜を読まずに暗記で曲を弾くことに慣れている子などは、18歳くらいになってもドレミがわからないのだそうだ。練習の際も、曲の途中で「はい、ここから弾きなおしてみて。」と言っても、それが一体どこのことなのかさっぱりわからず曲の最初から弾き直さないといけなくなるらしい。

自分たちがそんなことで困ったことがないので、まず原因が分からない。そして何がそんなに難しいのか理解できない。

その時にもやはり今の子供たちは生まれた時からスマホのある環境で育っているので、落ち着いて譜読みするという行為が苦手なのではないか、という結論に至った。

これは何もデジタルネイティブ世代だけに当てはまる問題ではない。

大人だって全く同じで、ふと気が付けばTwitterなどのSNSをチェックしたり、YouTubeで動画を受動的に見たりしている時間が増えているはずだ。

そしてそれに反比例して、読書量が致命的に減っているに違いない。

紙に鉛筆で文字を書く、という行為もほとんど必要なくなった現代では、漢字を書けない人を山ほど生み出していると思う。タイピングで素早くテキストをまとめる作業なども脳の使い方に何らかの影響があるに違いない。

懐古主義とかではなく、デジタル化によって脳の処理能力やその他、多方面で明らかに影響が出ているのではないかと思ったわけだ。

前置きが長くなってしまったが、そんなわけで読書量を意識的に増やす努力をしたいと考えた。

そのために必要なのはもちろん自分が興味を持てる本を入手すること。
短い時間でも構わないのでとにかく時間を確保すること。
必要であればスマホを見ない時間を設定すること。
移動中にスマホを操作する代わりに本を読むこと。

スマホを手にする回数を減らせば、自然と時間が確保できるのでその時間を読書に当てることができればいいだろう。

そして、習慣化できてしまえば何の問題もなさそうだ。

子供たちについては、補習校の音読の宿題や読書感想文を余力のある時にやらせたり、ドイツ語を1日1ページでもよいので声に出して読んでもらうようにしている。

日々の小さな積み重ねがいつか山になることを願って。

と、書くのは簡単だがなかなか思うようには行かないんだよなぁ。。

今日の読み聞かせは「けんた・うさぎ」。「ぐりとぐら」や「ももいろのきりん」を書いている中川 李枝子さんの作品。山脇百合子さんの絵も可愛い。

そして、寝る前にザミャーチンの「われら」を読むことにしよう。1920年代ロシアのディストピア小説。

タイトル写真:「読書管理ビブリア」の本棚

Wiedersehen nach 10 Jahren /10年ぶりの再会

一時帰国中に奈良で昔の同僚と。

先日はベルリンで昔の友人と。

10年、あるいはそれ以上会うことのなかった友人に会いに行った。

なぜそんなにブランクが空いてしまったのだろう。

子供たちも不思議そうに言っていた。

「ママ、なんで友達やのにそんなに会ってなかったの?」

そして、その理由を考えた。来月、長女は10歳になる。

ちょうど、第一子を出産したのが10年前に当たるのだ。

その頃は自分に子供ができるなど全く想像もしていなかった。年齢的にも微妙と言えば微妙で、もう子供は産まないだろうな、くらいに考えていたように思う。

ところが子供は生まれた。そして、それ以降は未知の世界が待っていた。

それまでは自分が世界の中心にいたわけだが、妊娠して出産してからというもの、世界の中心は子供に取って代わられたのである。

それがいいとか悪いとかそういう話ではなく、ただ、そうなっただけなのだ。

外国で生活する、というのはそれほど難しくはない。それまではそう思っていた。ところが、自分の事で手一杯だったところに子供の存在が加わった。

それによって仕事のやり方も生活スタイルも変えざるを得なくなった。

自分の世話だけでなく、赤ちゃんの世話が必要になった。

すぐに体力の限界、精神力の限界がくる。そんなキャパオーバーになる自分に愕然とした。

こんな状況になると、好きな時に自分の知人・友人に会う気力も体力も失われてしまうのである。

そんな調子で10年などあっという間に経ってしまった。これまでは気軽に声を掛けてくれていた友人たちも子供が生まれた途端に連絡が途絶えた。

忙しいだろうから、という心遣いもあったのだろう。

でも、子供たちも気が付けば7歳と9歳になって少し自分の中にゆとりが生まれた。ゆとりが生まれた、と言っても以前のようなわけにはいかないが、それでも子供たちが0歳と2歳、2歳と4歳だった頃に比べれば随分と楽にはなったのだ。

そんなタイミングで奈良では子供たちを連れて、以前同じ職場で働いていた同僚に再会できた。

そして、ベルリンでもひょんなことから連絡を取ることになった友人と再会できたのである。

彼らからすれば10年以上も連絡をよこさなかった薄情な友人なのかもしれないが、私にとってはそのわずか数時間の再会はとても貴重なものだったのだ。

久しぶりに会って話せたことが単純に嬉しかったし、やはり自分の繋がりも大切にしないとなぁ、と当たり前のことを再確認した。

10年振りに会っても、ほとんどギャップを感じられず何だか安心した。これもSNSのなせる技なのだろう。近況はなんとなく流れてくるからだ。

「また近いうちに会おうね。」と言って別れた。

近いうち、が10年後になりませんように。

最後に、この再会を記念してロシア人の友人が「いい曲だよ。」と教えてくれたTORPEDO BOYZ – Ich Bin Ausländer (Leider Zum Glück)のリンクを貼っておこう。

Villeicht bleibe ich auch hier.

Ausflug nach Brandenburg / ブランデンブルクへ行こう

今日は相方の誕生日だった。

「君たちが日本へ行っている間、ブランデンブルク州にある友人の家に行ったんだ。その時にいい湖を見つけたので行ってみよう。」

シュテヒリン(Stechlin)は車でベルリンから1時間半ほど。ロオフェンコ湖(Roofensee)はシュテヒリン=ルッピナー・ラント自然公園内に位置している。

ロオフェン湖

テオドール・フォンターネに関するブログでも書いたが、彼の出生地であるノイロピン(Neuroppin)にも近い場所だ。

彼の小説「シュテヒリーン」(Der Stechlin)にはこの地や人々、湖に関する写実的な描写がたくさん登場しているそうだ。

シュテヒリン湖周辺はツーリズムにも力を入れているようだが、ロオフェン湖は地元の人が訪れる小さな湖のようだった。

思いの外、風が強く涼しい。湖は連日の猛暑で水温もほどよく気持ちがいい。

昼過ぎに着いたので少し泳いでからノイグローブソー(Neuglobsow)に移動して遅めのランチをとる。

メニューにシュテヒリーン・マレーネ(Stechlin Maräne)という見慣れないものがあったので、聞いてみるとシュテヒリン湖でとれる魚だという。せっかくなので食べてみることにした。

淡白な味のシュテヒリーン・マレーネ

どうやらこの魚、またの名をFontane-Maräneといい、シュテヒリン湖でしか見られない珍しい魚らしい。endemisch「地域限定」という説明を見かけた。

こんなところにもフォンターネの名が付けられているとは。

フォンターネ通り

ノイグローブソーにはフォンターネ通りやフォンターネハウスとフォンターネ所縁の場所が集まっている。フォンターネ・マレーネが生息するグローサー・シュテヒリーン湖(Großer Stechlinsee)は多くの人々で賑わってた。

Großer Stechlinsee

フォンターネの時代から保養地として、多くの人々が訪れたに違いない。とても自然の豊かな土地である。

こんな風にベルリンからほんの数時間、車で郊外へ走るだけで美しい景色の広がるブランデンブルク州。

まだまだ発見できることはたくさんありそうだ。ベルリンだけでもまだまだ知らない場所や興味深いものは数多くあると思うが、時間があれば少し郊外にも足を運んでみてはいかがだろう。

子供たちがもう少し大きくなれば一緒にきちんと整備されたサイクリングロードを走ってみたいとも思っている。