Russisch lernen / ロシア語学習歴

今朝、ツイッターでロシア語に関する投稿をいくつかしたので、自分のロシア語学習歴について少し書いてみたくなった。

90年代半ばにベルリンにふらっと来たのが4月。その数ヶ月後にモスクワからベルリンに来てギャラリーの展示準備をしていた3人のロシア人に出会ったのが私とロシア語の最初の出会いだった。

ベルリンにはロシア人が割とたくさん住んでいて、誰かと繋がると必然的にロシア人の知り合いが増えるのだ。東ドイツは社会主義国家だったし、東ドイツ人はロシア語が必須の学習言語だった。ベルリンが壁で分割されていた時代には東ベルリンがソ連に占領されていたのだから何かと所縁があるわけだ。

そしてベルリンに来たばかりの私には大してやるべきこともやりたいことも見えておらず、時間だけがあり余るほどあった。ベルリンのロシア人コミュニティーにきちんとコミットする時間もそれなりにあった。

ロシア人の家に呼ばれる(Заходи в госте!)と、少人数の間は共通言語の英語で会話することになるが、人数が増えるにつれて会話で使われる言語は自然にロシア語になる。そうなるともう手のつけようがない。ちんぷんかんの状態で輪の中に入っているのが苦痛になってくるのである。(Я не понимаю, только чуть-чуть, и.т.д.)

それでも、ロシア人は完全放置型のドイツ人とは違い(ここ重要!)、折に気遣いを見せてくれるのでまだマシだった。

そして、会話についていけないフラストレーションがマックスになっていた頃、大学入学資格に必要なドイツ語のテストに受かったのでロシア語学科で勉強をすることにした。支離滅裂である。

ドイツ語でロシア語を学ぼうなんてはっきり言って無謀、というか無理。

なんとか大学に席を置かせてもらえるドイツ語力では、ドイツ語で行われる講義がちんぷんかんぷんな上、ロシア語をその不安定な言語で学ぼうと言うのだから時間の無駄でしかない。

それでもここはドイツ。不効率なのは承知の上だが、日露辞典、独露辞典、和露辞典、露露辞典などを机の上に山積みにした状態で授業を受けることに。

ロシア語力が全くないので、まずは準備コースで2年半くらいロシア語の授業を受けた。

“Ich habe das Wort nicht verstanden, Ich meine, ich verstehe die deutsche Übersetzung nicht…” (その単語がわかりません、えーっと、ドイツ語訳がわからないんです。)

とまあ、授業中も訳のわからない質問を飛ばしていたし、テストの結果も散々であった。確かbefriedigendで3くらいだったような。。「まあ、大したことはないが分かっている。」といったニュアンスだろうか。

習えば習うほど、その難しさが露出する言語というか、もはや闇。訳がわからなかった。それでもキリル文字に慣れ、少しだが会話も理解できるようにはなってきた。暇さえあればベルリンで知り合ったロシア人にモスクワまで会いに行ったりもしていたからだ。

数年間そうしてロシア語と格闘していたのだが、2000年にモスクワに遊びに行った時になぜか「面接を受けてみないか。」と知り合ったばかりの日本人女性に誘われた。

彼女とはその後、全く音信不通になってしまったのが残念だが、そもそも面接に誘われたことなどそれ以来、1度もない。彼女に初めて会った時に「モスクワで働くのってどんな感じかなぁ。」などと非現実なことを話したからだろう。

「私がバイトしたことのあるクリニックで1年半前ほどから英日露の3ヶ国語を話せる日本人を探しているみたいだから、一緒に行ってみない?」

非現実が現実に足を突っ込んできたわけだ。いつもの悪い癖で好奇心が勝ったので、とりあえず一緒に行ってみることにした。

面接時に同席したのはアメリカ人女性のクリニックマネージャーとロシア人女性の人事部長。

少しこれまでの経歴(断っておくが面接を受けた時には職歴らしい職歴は一切なし)についてロシア語で話し、彼らが探しているのが受け付け兼通訳であることがわかった。先方は既にきちんとした契約書まで準備していたのである。

「あなた、ロシア語も話せるし、ここで働いてみない?」

ロシア語も話せるし?befriedigendだし、ベルリンのフンボルト大学では教授に散々バカにされていたというのに??

またこれだ。というのも、ベルリンに来てすぐに入った語学学校でも同じようなことを経験済みだったからだ。クラスを決めるためにインタビューをした際に、自分の実力以上の上のクラスに入れられたことがある。「話せても(文法が)わかっていないのでひとつ下のクラスに入れてもらえませんか?」「いや、それだけ話せてるからB2でいい。」いいわけがない。

蓋を開けてみたら難解な文法だらけで理解するのに相当苦労した、というかついていけなかった。

「病院の受け付けで電話対応できるレベルではないので、難しいと思います。」

「いえいえ、是非やってみてください。」

「モスクワに住んでいるのではなく、ベルリン在住で学生なのですが。。」

向こうの反応はもちろん「え、そうなんですか!?」

ドイツ側、ロシア側のビザの手続きにどのくらい時間が掛かるのかも不透明、Untermieterとしてベルリンで借りているアパートの持ち主とも相談する必要あり、日本の両親に報告する必要もあるだろう。

「ええ。ただ3ヶ月の準備期間を頂けるのであればやってみようかと思います。」

数秒でひねり出した答えがこれだった。

「わかりました。3ヶ月待ちましょう。」

えーっ、待つの!?そんなに人がいないのか。普通は断るでしょ。。

今ではおそらくあり得ない状況だと思うが、90年代後半にわざわざモスクワに住もうと移住してくる日本人はほとんどいなかったのだろう。クリニックは治療費も高く、主に駐在の日本人を対象に日本語で応対できる人材を探していたのだろうと思う。

ただ、この無茶な半年間ほどのインターン経験でロシア語力が跳ね上がったことは疑いの余地がない。外国語は現地に行って学ぶのが近道、というのは間違いないと思う。少なくともドイツ語でロシア語を習っているよりは確実にうまくなる。

2001年の夏にベルリンに戻り、2002年からはベルリンの映像制作会社で働くことになったので、バルト三国やロシアでの撮影の時にはロシア語が役に立った。ただ、それ以外ではドイツ語、日本語、たまに英語が仕事のメイン言語になったため、使う機会が一切なかった。そのためロシア語はほとんど忘れてしまっている。

ロシア語圏にまた行きたいし、何かやってみたい気がするので、一度やったロシア語を最近本気でやり直したいと思うようになってきている。魔が差す、というやつですね。

Jobcenter / ジョブセンターの悲劇

労働局やジョブセンターについては実はずいぶん前から書こう、書こうと思いつつ書いていなかったネタだ。

あくまでも個人的な私の経験を以下、記しておこうと思う。

2002年からほぼ10年間勤務した職場を第二児妊娠を理由に解雇(あくまでも表向きは希望退職という形)されて辞めることになった。

さて、どうしたものか。当時は希望退職という形で労働局(Arbeitsamt:現Bundesagenture für Arbeit)に失業保険を申請する場合は手当を3ヶ月カットされてしまうからだ。

ここは正直に解雇になった理由と経緯を書面で先方にきちんと伝えることにした。

こちらの説明が正当な理由として認められ、結局失業保険3ヶ月分をカットされることは免れたのを記憶している。

長女がまだ4歳、長男が2歳になったばかりで育児に振り回される日々の最中、非常に煩雑な手続きだったことを覚えている。

とにかく、週に20時間のオフィス勤務から全く別の生活リズムに慣れることが先決だったのだが、手のかかる小さな子供達の育児で全くもって手一杯だった。

正直なところ、二人目の妊娠によってこれまでの職場を解雇される、というのが自分の中でなかなか気持ちの上で割り切れなかった。

今になって振り返ってみると、10年(も)勤務したタイミングで退職できて本当に良かった。恐らく会社というものはそういうものなんだと思う。

しかし、その当時は妊娠したために解雇になった、という流れに「結局、実際に妊娠や出産をしなければならない女性の方がこれまでの職場を放棄し生活の変化を余儀なくされてしまうのか。」という思いが先に立ってしまった。

そして、労働局というかジョブセンターの対応には心底がっかりした。なぜか。

失業保険が給付される必要条件として、労働局管轄のジョブセンターに定期的に出向して現状報告をするという義務が課されていた。

とにかく再就職の意思を見せておかないと色々とまずいことになるような感じなのである。

細かなやりとりまでは残念ながら余り記憶していないのだが、「再教育プログラム」なるものを受講すればその間は失業保険が延長して給付されるということらしく、どういった内容のコースがあるのかについて相談を受けたことがあった。

一言でいうと、担当者の言っていることがトンチンカンで全く役に立たなかったのである。

仕方がないので、自分で色々と調べた挙句、家から自転車で通える距離にあるコースを半年だけ受けてみることにした。

英独ビジネス翻訳講座、正式名称は忘れてしまったが、とにかくビジネス英語とドイツ語を一度に習えていいだろう、という安易な考えで選んだコースである。

朝の8時から午後13時までの週5回を半年間。これだけ聞くと、なかなか良さそうではあるが、実際に通ってみてすぐにこう思った。

「時間のロスでしかない。」

やる気のないコース受講者にやる気のない講師。これに尽きた。免除される受講料は数千ユーロ。全くもって税金の無駄遣いである。

ただ、全てのコースがだめなはずはないので、運が悪かったのだろう。ただし、ジョブセンター絡みの再教育コースに関する良い噂は余り聞かないのも事実である。

極端な話、この時間にブログをきちんと書いたり、独学でプログラミングでもやった方がよっぽど何かの足しになったに違いない。当時は残念ながらそういう考えには至らなかったのだから仕方がない。

それでも、結果として失業保険が半年延びたのだから良しとせねばなるまい。

とにかく子供達が最強に手が掛かる時期だったので、ゆっくりと考える気力や体力もなかったのだろう。想像力も欠如していたようで、キタへのお迎え時間までに終わるコースで自分にも何らかの見返りがある内容のものとして絞り込んだ結果だった。

もし、就職して失業するようなことがあれば、失業保険はしっかりと申請し、1年なり1年半なり次に繋がる何かを自分なりに見つける時間を確保するのがいいのではないかと思う。

気の利いたアドバイスはできないが、ジョブセンターの言うことは鵜呑みにしない方がいい、ということだけははっきりと言っておこう。基本的には自分でリサーチした上で経験者の意見を取り入れつつ判断を下すのがベストかと思う。

結局、1年半ほどの失業保険の後はフリーランスとして、メディア全般のコーディネートを中心に仕事を始め、今に至っている。

子供達も大きくなってきたので、そろそろ並行して、他のプロジェクトにも着手したいと考えているところだ。

 

Aufnahmeleiter / Koordinator / 撮影コーディネーター

珍しく仕事の話を少し。

今月はなぜか毎週のようにロケや取材が入っていて忙しい日々を過ごしている。毎日、制作会社勤めをしていた頃のような忙しさである。

ロケに行って洗濯をし、また荷造りして次のロケへ出る。

正直、今年前半はテレビ番組の撮影が数本入ったきり、後は小さな案件がちょろちょろ入る程度で閑古鳥が鳴いていた。

「いよいよ、営業しないと仕事が取れないな。」などと思いつつ、夏休みによく考えず帰国したのが嘘のようだ。結局、子供中心に動いたため営業もできなかった。

フリーランスというものは定期的に仕事が入るわけでもないので、このように先行きが見えない不安、というものを多かれ少なかれ感じるものなのだ。

会社にいた時はまだテレビ全盛の時代であったので、それこそバラエティーに富んだ番組の撮影を経験してきた。W杯にサッカーの取材、クラシックコンサートの中継から旅番組、情報番組などなど。

タレントがわざわざドイツまで来て海外ロケをする、というのも極めて頻繁に行われていた頃だ。

フランクフルトのボーリング場にスタジオセットを組んで撮影したこともある。その時は日本側とドイツ側のスタッフ総勢40人ほどを相手に仕事をしたが、あんな仕事はもう2度とやりたくない。

手配したクレーンが日本のものと違うと言われ、発注し直したクレーンからカメラマンが落ちるわ、撮影が長引きすぎてドイツ人の照明スタッフが途中で帰る、と言いだすわ。

まるでワガママまな幼稚園児を束にした相手と仕事をしているような現場だった。

某スポーツカーの撮影では300キロの車をヘリで追跡する撮影を行った。上下左右に振られ、危うく胃の中のものが全て出そうになったり。真っ青な顔でギリギリ着陸。

気球を使った撮影では風まかせで降りたところが畑のど真ん中で持ち主が飛んできて怒鳴られたり。

それはもう色んなことが現場では起こるのである。

会社を辞めてフリーになってからは、割と落ち着いた案件が多い印象だ。

気心の知れたクライアントさんや知人友人繋がりの仕事だからなのだろうが、時代の変化もあるのかもしれない。

最小限の機材に最小限のスタッフ。小回りが利き、無駄がない体制。ずいぶんと現場もやりやすくなっている印象を受ける。

ベルリン見本市でのカメラチーム

無駄がない分、一人当たりの負担は増えるわけだが、先日のベルリンとフランクフルトの見本市でもご一緒したカメラチームのほとんどがコミュニケーション力抜群でとても助かった。

ドイツ語や英語使いのクルーだと、間に割って入る必要がない分、進行がスムーズ。フランクフルトには以前から一緒に仕事をしているドイツ人音声と共に向かったが、日本からいらしたベテランカメラマンが英語で話してくれる、と嬉しそうにしていた。

コンパクトだが優秀な4Kカメラ

ドイツ人音声で日本のカメラチームに入ると、誰とも会話できないという状況も多々あるからだ。

そんなわけで、現場における自分の仕事は圧倒的に減ってしまったのだが、そこは割り切ってフードコーディネーターに徹してみた。

さすがビジネスの街フランクフルト。レストランのクオリティーはいたって高めの印象だ。

・ランチは時間のある時はラーメンにお寿司。それ以外は見本市会場でソーセージなど
・夕食はドイツ、イタリア、ベトナムに韓国レストラン

フランクフルト名物のGrüne Soße

どれも非常に美味しく、美味しいと翌日も楽しく仕事ができるというわけでいい感じに全行程を終えることができた。

寿司ランチ@岩瀬

ロケの食事は侮れない。

Arbeit im Ausland / 海外で就職

2000年12月からドイツとの間で開始されたワーキングホリデー制度のおかげで、18歳から30歳までの人が海外に出て色々な経験を積むためのハードルが大きく下がった。

ワーキングホリデー制度について

95年にベルリンへ来た時は、まだそんな自由度の高いビザもなかったので大学を卒業したての私は在り来りの手段を使って仮ビザを申請した上で渡独した。

目的は「留学」で、まずはそのための「語学習得」のためのビザという形である。

語学学校へ通っている間は就労は不可、1年半以内に大学入学のためのドイツ語テスト(DSH:Deutsche Sprachprüfung für den Hochschulzugang)に合格できなければ帰国、という縛りの多いビザである。

逆にそれがあったから、ドイツ語を学んだようなものだ。追い詰められないと勉強できない性分なのである。

ドイツのテストで多いパターンだと思うが、この大学入学資格を得るためのDSHというドイツ語のテストは2回まで受けることが可能だった。2回目で失敗すれば、そこで詰んでしまう。

1回目はギリギリで落ち、後がない2回目はギリギリで合格した。ギリギリだろうがなんだろうが合格は合格だ。本当に危なかった。

晴れて語学ビザから学生ビザに切り替えられたが、特に確固とした目的がなかったので、席の空いていたロシア語学科・ドイツ語学科・ジャーナリズム学科を専攻することに。

興味のあった美学はNC(Numerus clausus)、要は人気学科のため席が空いておらず、推薦状なども書いてもらったものの入ることができなかった。

「ベルリンに住みたい」「街を知りたい」という理由でやってきた私には正直、どの学科でも良かったのである。

日々の生活を送るには最低限の生活費が必要なので、その当時は可能なことは全てやった。

  • 日本食レストランでバイト
  • 日本学科の学生向けの日本語チューター
  • 語学学校で日本語教師
  • 友人の経営するクラブで寿司販売
  • オランダ人キュレーターの経営するギャラリーでバイト
  • 通訳

当初1年の予定だったベルリン滞在だが、1年など何も達成できないうちに終わってしまい、日々変化するベルリンが面白くて日本に帰りたいとは思わなかった。

金銭面で不安があると精神的に多大なダメージを食らうが、そういう経験をベルリン滞在初期の数年で何度も味わった。無計画すぎたので当然の報いである。

クラファンもなければ、ツイッターもなく、そもそも日本人がまだまだ少なかった。それでも知り合った日本人に自分の状況を正直に話すと、「考えが足りない。」「何の目的もないってどういうこと。」と直で説教されたり、半ばバカにされたような記憶がある。

「私はもっと苦労した。」「ちゃんと目的意識を持たなくてはやっていけない。」だったかな?あまり覚えていないが、目上の人にはそんな風に度々怒られた。

せっかく日本を出たのに、また型にはめようとする人がいるのはちょっと悲しかったが余り気にはしていなかった。苦労はしたい人がすればいいし、人それぞれやり方が違う、くらいのことはぼんやりと感じていたからだ。

どうしてベルリンに来てまで他人に構うのだろう。放っておいてほしかったのだ。

ひとつはっきりしていたのは、キャリアを追うのであれば初めからベルリンには来ていなかった、ということに尽きる。

「普通に」大学在学中にスーツを着て就職活動し、大学卒業後に内定先の会社で働き、会社で学べることを学んでスキルアップをする。

全然悪くない。逆に給料をもらいながらスキルを学べるなんて今から思えば最高である。ドイツのように専門性を求められることもないので、割と誰にでも興味のある分野を開拓できる可能性がある。

ただ、大学在学中から「ここではないな。」という違和感しかなく、サークルなどにも全く興味も湧かず、中・高一貫教育の実験的な学校よりもつまらない授業内容にがっかりし図書館で本ばかり読んでいた。

大学生活が余り魅力的ではなかったために、自ずと海外に目がいくようになる。そして、在学中に旅先で出会ったベルリンに惚れ込んでしまったのが運の尽きだったのだろう。

不思議なことだが、日本で常に感じていた違和感のようなものが剥がれ落ちた、とでも言おうか、ベルリンでは次から次へと興味深い人たちに出会えた。

当時の自分には「どこかしっくりくる。」というその感覚こそが何よりも大切だったのだと思う。アウェイではなくホーム。

気付いたら「就職」の話からはほど遠くなってしまった。これもまたある意味、象徴的である。

Frauen und Arbeit / 女性と仕事

今日も、こんな時間になってしまった。

知人からの依頼でインタビューの書き起こし作業というものをやっている。日本語のインタビューを書き起こす作業なので、案外すぐにできるだろうと高を括っていた。

ところがだ。1時間半ほどのインタビューは書き起こすとA4用紙に23枚ほどにもなるではないか。

何事も見くびってはいけない。タイピストではないので、いくら母語とは言え、話す速度で文字を打てるわけがないのである。

肝心のインタビューの内容だが、日本の大企業で女性として役員にまで駒を進めたキャリアウーマンがどのような軌跡で今のポジションに至ったのか、ということを語るものだ。

どのような挫折を経験して成長したのか、転機になった出来事は何か、会社で学んだことは何か。

直接、お会いして話を聞いたわけではないので、声の抑揚や話し方で判断するよりほかないのだが、どちらの女性も話し方がとてもサバサバとしていて、バイタリティー溢れる印象を受ける。

日本で就職活動をせず、大学卒業後すぐに渡独した私にとっては、「女性として日本企業で働く」ということとは無縁だ。大学在学中に就活に必要な自分のスーツ姿が全く想像できなかったのだから致し方ない。

インタビューイの女性ふたりは、1986年に男女雇用機会均等法が施行されて数年後に就職し、バブル時代の勢いに乗ってキャリアの階段を自分たちの努力はもちろん、共に戦う仲間や良き上司に恵まれ築き上げてきた人たちである。

印象に残ったのは、一人の女性役員の「私は『おじさん』のように働いてきたので、今の若い人たちの聞きたいようなことは言えないと思うんです。ちょっと古臭いというか。そういうところが、逆にコンプレックスにもなっているんですよね、子育てもしていないし。」というくだりだ。

確かに、どちらの女性の働き方も今の労働法というか働き方改革からは程遠い、過酷なものである。徹夜もあれば、週末を返上して働くのも普通、非常時には泊りがけで仕事。

余りの重責に夜眠れなくなり、食べ物の味すら分からなくなる。それが原因で体重が一度に7キロも減ったこともあるという。

「ブラック企業」がまだ取り沙汰されていなかった時代。自分の責任である意味、好き勝手に働けた時代だったわけだ。

今では考えられない状況だが、いわゆる「昭和的な働き方」をしてきた世代の女性たち。

「残業ができないって言われるとどうしようもないんですよね。」という発言が飛び出したりもした。

働き方ひとつを取っても、ここ2、30年くらいでずいぶんと変化があったのだな、と彼女らの話を聞いていて色々と考えさせられる。

ただ、やはりひとつ思うのは、もし自分が大学在学中に就職活動をして、どこかの企業に入社していたとしたら、おそらくベルリンには来ていなかっただろうな、ということだ。

日本の企業はある意味、学校の延長のような感じで入ってから色々と学べることも多い気がする。もし、そこで同僚や上司に恵まれていたら仕事が楽しくなってそれはそれでまた別の人生になっていたのだろうな、と。

もし、機会があれば一度日本の企業で就職して学ぶことを学んでから、外に出てもいいんじゃないか、むしろその方が仕事の経験値が上がって海外に来る理由も明確になっていいんじゃないかとすら思えてしまう。

やはり、勉強するべき時にきちんと勉強して自分の強みみたいなものを作っておかないと痛い目にあうな、ということに尽きる。明日もそんなわけで、書き起こしの作業は続くわけです。

Leben im Ausland / 海外移住の盲点

90年代半ばに旅で出会った無愛想でモノクロなベルリンに惚れ込んで、特にこれといった明確な目的もなくドイツまでやって来た。

その当時はこんなに長く住むことになろうとは夢にも思わなかったし、そもそも先のことをこれっぽっちも考えていなかったからこそ、ベルリンに来れたのだと思う。

目的もなかったのに、「ベルリン」という選択肢には1ミリの迷いもなかったのが今でも不思議だ。

来た当初は、何もかもが目新しくカオスなベルリンに夢中だった。頻繁に日本に帰国するような必要性に迫られていなかったように記憶している。

どちらかというと、日本に帰るくらいなら、ベルリンからモスクワにせっせと足をはこんでいたくらいだ。

滞在が3年、5年、10年と長くなるにつれ、「日本に帰ろうかな。」(本帰国)と思わせるような出来事やタイミングが何度かあった。

単純にホームシックになった時や、精神的にどん底になった時。東京での仕事の話を頂いたような時だ。

それでも、その都度「やっぱりベルリンに残ろう。」という選択をしてきた結果、今がある。

帰るべきタイミング、という節目のようなものは存在していて、その一線を越えると帰るのが難しくなるのではないか。最近ではそう思うようになった。

理由は人それぞれだが、年齢や仕事を取り巻く状況、パートナーとの出会い、出産だったりするのだろう。

ドイツでふたりの子供をバイリンガルとして育てようと悪戦苦闘するようになってから、それまでは特に意識していなかったある問題が浮上してきた。

それは家族単位での一時帰国の難しさ、だ。

子供たちの継承語である日本語を一定レベルにキープするためには、定期的に日本語のみの環境に身を置くことがとても重要だと考えている。

そのためには、可能であれば1年に1度、最低3週間は日本へ帰国するのが望ましい。できれば日本の小学校に体験入学させるのもいいだろう。

聞こえはいいが、物理的にはなかなか厳しいのが現状である。

小学校の低学年の間はそれほど問題ではないが、学年が上がるにつれて帰国のタイミングが難しくなる。夏休みに帰るには暑すぎるし、冬休みでは短すぎる。季節の良い春や秋に帰ろうと思うと、フライト料金が高すぎる、などなかなかうまく条件に合わない。

小学校によっては、学校休暇前後に追加して休みを取ることを認めていないところもあるので、その場合はさらにハードルが高くなる。小学校を長期で欠席する際は必ず学校長の許可を得る必要があるためだ。

実は、今年の秋に一時帰国を予定していたのだが、いざフライト料金を確認してみると、軒並み1000ユーロ超え。3人分となるとざっと3000ユーロである。実家には泊まれない事情があるので、アパートを借りるとなると移動と宿泊費だけで5000ユーロ弱は掛かる計算になる。

稼いでいれば問題ないでしょ、という声も聞こえてきそうだが、小学校低学年の子供が2人いる中でフリーランスでがっつり働くとなると生活が回らなくなる。回せたとしても犠牲にするものも多いだろう。

ドイツでは小学校の教育だけでは基礎学力がつきにくいためだ。Schraibm nach Gehoä / 聴覚をもとに書く、でドイツ語教育についての疑問をまとめているのでご参考までに。

コンサルやIT業界ならともかく、現状そこまで稼げる環境にないというのが正直なところだ。

毎年、一時帰国の計画を練っていると、「このままではダメだ。」と悲観的になりがちなのをどうにかしたい。

家庭によっては、子供をひとりずつ帰国させたり、隔年で帰国したり、我が家のように日本人の親と子供のみで帰ったり、とあの手この手でやりくりしていると聞く。

そんな先のことはわからないよ、と思われるかもしれないが、海外で家族を持ち子供にバイリンガル教育をさせる、ということはそんなに簡単なことではない、ということは頭の隅に置いておいた方がいい。

海外移住のススメ、海外移住を成功させる方法、海外移住におすすめの国といったキーワードは並んでいるが、海外移住のその後については誰も教えてはくれないからだ。

親子留学についても同様なのであしからず。

Kinder und Karriere / 育児と仕事

今朝、ジョギングを終えて帰宅しようと公園の出口に向かって歩いていると、母親らしき怒鳴り声が聞こえてきた。

いつもは鳥のさえずりが聞こえる静かな朝の公園。彼女の大きな声は周囲に響き渡っていた。

どうやら幼稚園に子供が行きたがらずに愚図っているらしい。

「いい加減にしなさい!仕事に行かなくちゃいけないんだから、こんなところでボイコットするのはやめて!」

かなり長い間(母親にとっては永遠に感じられる)、男の子がぐずぐずと何かを訴えており前に進めないのだろう。母親の怒りはすでにマックス。そんなお母さんの恐い顔や怒鳴り声に責め立てられ、泣き声がさらに大きくなる。

渦中でなければ、冷静に状況を俯瞰できるのだが、時間もない、子供は動こうとしない、時間ばかり経つ、という魔のループにハマるとそれどころではなくなる。

この状況、実際に子供に愚図られた経験のない人から見ると、ヒステリックな母親と可哀想な子供、という風にしか映らない。どうして朝っぱらから公共の場で怒鳴り散らす必要があるのだ、と眉をひそめる人もいるかもしれない。

この母親の気持ちが痛いほど分かり、手助けできないのが辛かった。

急いでいる時やゆとりのない時に限って、小さな子供は駄々をこねたり、体調を崩して幼稚園を休んだりするのだ。

週末までに6人分(6時間分)のドイツ語インタビューを日本語に起こさなければならない時に限って、怪我をし病院に通う必要があるのが子供。ロケが来週からというタイミングで風邪をひいて休むのが子供。

親の予定通りには決して行かないのが小さな子供のいる生活なのである。

日本でも最近では共働きの家庭が増えてきているが、ドイツでは女性も仕事を抱えていることがほとんどだ。

幼稚園でも挨拶がわりに「最近、仕事どう?」というくらい、育児をしながら仕事をするということが当たり前になっているし、周囲からのプレッシャーも多い気がする。

周りの知人を見渡しても、娘が3歳になるまで授乳をしていたポーランドとドイツ人の両親を持つ女性だけが、子供たちをギリギリまで幼稚園にも入れず手元に置いて育てていた。

「ポーランド人は家庭を大事にするのよ。私は出来るだけ子供たちのそばにいてあげたい。」

自分のメンタリティーはポーランド人だ、という彼女の意見は例外である。

長女を出産した時にはまだ会社で働いていたため、妊娠中から保育園の空きを探し、あちらこちらに問い合わせをした。「保育園落ちた。日本死ね。」みたいな状況は何も日本に限ったことではない。

ベルリンでも保育園・幼稚園の数や保育士の数が慢性的に足りておらず、妊娠中から動かないと地区によってはなかなか保育園の席が確保できない。

長女はそれでも11ヶ月のときにはすでに保育園へ入れることになった。10件くらい、ギリギリ徒歩範囲内の施設に電話で問い合わせたり、直接出向いての交渉の末、ひとつだけ何とか入れてもらえることになったからだ。

「両親期間」という出産後8週間の期間が終われば職場復帰が待っていたので、後がない状況だった。入ることは決まっても、復帰までに慣れ保育がうまく進むのかやってみなければわからない。

おまけに保育園にせっかく入れても冬の寒さが厳しいドイツ。幼児はすぐに保育園からあらゆる強力な菌を自宅に持ち帰ってくる。初めの1年はそんな具合で、常に体調が悪かった記憶しかない。

今朝の母親と息子のやり取りを見て、自分が大変だった時のことを思い返してみた。我が家の子供たちも小学生1年と4年になり、ずいぶんと手が掛からなくなった。

補習校の宿題や現地校のドイツ語問題など、また別の難しさは出てくるが、精神的に極限の状態に追い込まれる、というようなレベルの大変さからは抜け出た気がする。

街角で大変そうな親を見かけたら、責めずに何か手助けできないか立ち止まって考える余裕を持ちたい。

Zähneknirschen / ストレスと歯ぎしり

歯が弱くて悪い。

唐突になんだ、と思うかもしれないがストレスが増加すると、すぐに歯に来るのだ。これはどうやら生まれつきらしいので厄介である。

テレビがまだ全盛期だった頃は月に何度もロケに行っていた。スーツケースに荷物を詰めて出張の準備をし、帰ってきて洗濯機を回し、またスーツケースに詰めて次のロケ。

そんなことを繰り返しているうちに、一度に何本も歯の治療をする必要に迫られた時期がある。ロケが立て続けに入って仕込みも大変なのに、何とかその合間を縫って会社から割と近かった歯科医に勤務中に抜けて通っていた。

歯の痛みは放置できないからである。

だが、ドイツは歯の治療費がバカにならないので、もうこうなったら何のために労働しているのかさっぱりわからない。給料振込→歯科医代→ロケのヘビロテ状態だである。

とまあ、こんな具合なので、ある程度調整できるフリーの今ではそれほど歯医者に行かなくても済むようにはなった。それでも、普通の人より歯医者に行く回数は多いだろうと思う。

2ヶ月前にも歯の詰め物(インプラント)がなぜか治療して割とすぐに欠けたので、調整をしてもらったばかりだ。しかし、それから痛みが長い間引かず不思議に思っていた。

放置しておいて悪化しても困るので、いつもの歯医者さんに相談に行ってみた。もう長年診てもらっているドクターだ。

「うーん。今まで気付かなかったのが不思議なくらい、歯がすり減ってるな。これ、間違いなく就寝時の歯ぎしりが原因だと思うよ。」

えっ!?歯ぎしりですか。

確かに先月ロケは入っていたけれど、まさかそれが原因とも思えないしなぁ。。グーグル先生に翻弄させられたストレスなのか。。

とにかく、ひどくなると歯が折れたりすることもあるそうで、急遽歯ぎしり対策のためにマウスピース(Zahnschiene)を作ってもらうことに。市販品もあるが、個人差が大きいのできちんと調整して作ったものでないと効果が出にくいのだろう。

悪夢のバリエーションのひとつが、歯がボロボロと抜け落ちる、という恐ろしい内容だったのもこのせいなのか(もはや病気)。

癖や上顎と下顎の噛み合わせの悪さ、カフェインの取りすぎ、浅い眠り、ストレスなど歯ぎしりの原因ははっきりとは解明されていない。

歯ぎしりは歯の痛みはもちろん、頭痛や耳鳴り、首や肩のコリの原因にもなるそうなので、治療したインプラントが欠けやすい人や治療後なのに歯が痛む人は一度歯科医に相談してみたほうがいい。

Smartphone / スマホの普及

スマートフォン、いわゆるスマホが普及しだしてから、まだ10年ほど。通話するだけの携帯電話からアプリ装載のOSになり、世の中の変化するスピードが格段に上がった。

考えてみれば、2009年に長女を妊娠・出産して精神的なゆとりがなかったのであろう、その間にテクノロジーの進歩に置き去りにされてしまう。そして、その危機感もあってか自宅のデスクトップは出産直前に購入したものだ。

それでも、2007年にYouTube、2010年にTwitterに登録だけはしていたようだ。そして、それらのアカウントもつい最近まで放置されたままだった。

コミットする余裕がなかったのである。

長男の妊娠とともに、それまで10年ほど働いていた制作会社を退社することになり、ようやく自分のペースが掴めるようになったのが2014年頃。

フリーとして撮影コーディネーターや通訳を本格的に始めたのが、ちょうどその時期だったが、まだまともに機能するスマホを持っていなかったのを覚えている。今では全く想像がつかないが、グーグルマップもなければ常時ネットに接続できない状況で仕事をこなしていたわけだ。

ロケ開始前に念入りに準備さえしておけば、現場は回せるのである。もちろん、突発的に発生するトラブルやクライアントの希望なども出てくるわけだが、それも臨機応変に対処しようと思えばできるものだ。

スマホがなければないで、なんとかなるものだし、2000年初頭の10年間はその状態で仕事をするのが普通だったのだから当然といえば当然だ。

逆に、今はスマホに頼りすぎているので、仮に現場で携帯の電源が落ちてしまったら、ちょっと慌ててしまうんじゃないかと思う。グーグルマップに、グーグル検索、配車アプリ、モバイルチケット、ホテルの予約アプリ。スマホ一台でこなせる作業が山ほどある。

今後10年はさらに翻訳や通訳機能も精度を上げるだろうし、気付いたら現場でやるべきことが残っていないかもしれない。そもそもマスメディアのあり方も変化しているに違いない。

将来に対する不安がないといえば嘘になるが、元来新しいもの好きなのと何でも自分でやりたい方なので、ツールを使いこなして、どんどん色んなことに挑戦したいと思っている。

このブログもWordpress.comから5ヶ月目。記事更新も100日を超えたところだ。

今日、ようやくグーグル先生からもアドセンス申請の登録許可が下りた。広告を貼る、ということに少なからぬ抵抗はあるのだが、これも新たなトライということで大目に見ていただけると幸いです。

貼り方がよくわからないので、いつ反映されるかわかりませんが。。