Tühringer Landestagswahl / チューリンゲン州議会選挙

政治の話はどちらかといえば苦手である。

先日、たまたま、というよりは週末に議会選挙を控えていたタイミングだからメディアが報道したのであろう。「現在、チューリンゲンの小学校では授業がありません。」というFDPの第一候補者の発言を目にしたので、チューリンゲン州の小学校で休講が続いている話をブログでも紹介した。

ブログを書きながら、義務教育である小学校の授業すらままならない状況であれば、東ドイツ時代はよかった、と懐古主義に向かう人々がいてもおかしくないのではないか、と思ったりもした。

日常生活の中で、こういった小さな不満や不安が少しずつ積み重なり、それが気付かないうちに一つの大きな流れになっていくのではないだろうか。

チューリンゲン州の選挙結果は驚くべき、そしてまた一方ではある程度覚悟していたものになった。非常に残念だし「やはりそうなるのか。」と心底がっかりさせられた。ドイツ人はもう少し思慮深いはずだと、どこかで期待していたからだろう。

壁崩壊から30年。第二次世界大戦からだと70年以上が経つ。歴史は風化する、とよく言われるが過去の歴史を「なかったこと」にするような発言がドイツでも日本でも頻繁に聞かれるようになってきたのではないか。

wahl.tagesschau.de

AFDが第二党に躍り出た、ということもそうだが、チューリンゲン州のAFD党首であるビョルン・ヘッケ(Björn Höcke)はあからさまに極右的な発言(völkische Rede)をすることなどにより、AFD党内でも問題視する党員がいるほど「民族的」なのだ。

このvölkishという言葉だが、参考までにDudenの定義を引用しておこう。日本語でも「フェルキッシュ」の説明文がウィキペディアに出ている。

Duden: völkisch

2017年にドイツで行われた総選挙の2ヶ月後、ヘッケがベルリンにある虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(Denkmal für die ermordeten Juden Europas 、通称:ホロコースト記念碑)を「恥のモニュメントだ」と発言したことに対し党内の執行委員から懲戒処分を受けている

この発言を受け、アーティスト集団の活動家たちがヘッケの自宅前の空き地を購入し、ホロコースト記念碑のレプリカを作ったことは別記事「アートと政治の関係」でも触れたことがある。

今回のチューリンゲン州議会選挙に関する記事を色々と読んだ中でも、わかりやすくまとまっていたTagesschauの記事の一部をここで紹介しておきたい。

これほど多くのAfDへの投票を普通にしてはならない

この事実は特に決定的だ。なぜならチューリンゲンは政治的な普遍性の終わりを示したからだ。AfDは4つ目の旧東ドイツの州で第二党となった。しかもAfDが極右グループとして強い「派閥」を形成しているチューリンゲン州でそれが起こったからである。党首のビョルン・ヘッケは国家社会主義を180度の懐古主義でもって無害なものとした人物だ。連邦憲法擁護庁はこの「派閥」を監視しており、党内でも強い極右の流れに対して批判が起こっている。

Tagesschau / Politische Lähmung nützt nur der AfD

この記事ではチューリンゲン州議会選挙の結果はこれまでの古い政治慣習を打ち破ったとある。

これまで左派党(die Linke)といえば、プロテスト政党、東独時代の社会主義統一党(SED)の後継、全てを社会主義的な色に染めたい政党、薄汚れた子供のようなどの政党にも相手にされない政党であった。その左翼党が政治を行えるのだ。

同上

左翼党のイメージ描写もなかなか手厳しい。

CDUやSPDといった二大政党が大幅に得票率を下げているのも特徴的だ。すでに2017年の連邦議会選挙でその傾向が見られたが、さらに拍車をかけた結果となっている。

ブランデンブルク州やザクセン州に続き、旧東ドイツ地域におけるCDUの求心力低下は明らかだ。

11月7日に選挙結果が確定する。

余談になるが、西ベルリン出身の相方は「こんなニュースを聞くと、正直ザクセン州やドレスデンなどへ敢えて行きたいと思わなくなるね。ほら、*オッシー(東ドイツ人)とか*ヴェッシー(西ドイツ人)という言い方があるけど、僕はヴェッシーなわけで。」と漏らしていた。

*Ossi und Wessi :東ドイツ人出身者や西ドイツ人出身者をそれぞれ揶揄した言い方

知り合いのドイツ人の音声マンも昨年のケムニッツでの極右グループデモ取材の際に初めて身の危険を感じたのだそうだ。PEGIDA(「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」)やAfDが「嘘つきメディア(Lügenpresse)」などのシュプレヒコールを掲げる影響だと思われる。

ベルリンの壁崩壊から30年。目に見えない東西の壁はさらに強固になっているのかもしれない。

TimeRide-VR Tour / ベルリンの壁をVRツアーで体験

旧東ベルリンをバスで周ろう

こんなタイトルの記事を目にした。タイトルの下には30年前のチェックポイント・チャーリーをVRで体験、とあった。

今年はベルリンの壁崩壊30周年記念。

まだ30年しか経っていないと見るのか、もう30年も経ったのか、と感じるのかは人それぞれだろう。

私はどちらかというと前者の方だ。「まだ、壁が崩壊してから30年しか経っていないのか。その割にはベルリンもずいぶんと変わったな。」と。

壁崩壊後の混沌としたカオスだった頃に比べると、街の魅力だった「隙間」がことごとく埋め尽くされてしまったような気がする。

「何もない場所」「空き地」「廃墟」など一見何の役にも立たない場所というのは可能性がたくさん隠された魅力的な空間なのだと思う。

そんな「隙間」どころか、住む場所が簡単に確保できない状況になりつつあるのが現在のベルリンだ。いわゆる普通の値段ではなかなか賃貸アパートを借りることができなくなってきているためだ。

90年代のベルリンも住宅難だったように思うが、当時は住める状態の物件が少なくてそうなっていた。

石炭ストーブ、シャワーなし、階段の途中の共同トイレなどもスタンダードだった。いつ崩れ落ちても不思議ではないので、バルコニーの下を歩かないように気をつけていた頃だ。

さて、ボロボロのアパート群がVRで体験できるのかどうかは不明だが、TimeRideという会社が8月24日にチェックポイントチャーリーの側にタイムトラベルセンターをオープンするそうだ。

1時間ほどのツアーは以下の4つのステーションに別れている。

Station 1 – Der Checkpoint Charlie

ベルリンの壁の検問所として最も有名な場所。センターのすぐ向かい側に位置するチェックポイントチャーリーからツアー開始だ。

Station 2 – TimeRide Ermöglicht einen Blick durch die Mauer

センターに戻り、文字通り壁を通り抜けて当時の西ベルリンと東ベルリンの日常を比較することができる。

Station 3 – Die Zeitzeugen

続く部屋では、当時を知る証言者の身の上話が中心のテーマだ。証言者と一言にいっても壁にまつわる体験は実に様々だ。ツアー参加者は労働者、建築家、そして西側からの旅行者の中から同行者を選ぶことができる。

Station 4 – Die TimeRide Virtual-Reality-Fahrt

VRツアーのハイライトはバスに乗って80年代のベルリンの街を体験すること。チェックポイントチャーリーでの検問や当時のフリードリヒ通りの様子、共和国宮殿などをVR体験できる。ベルリンの壁が崩壊したオリジナル映像も見ることができるようだ。

©TimeRide

Berlin VR-Tour: Lohnt sich alleine oder in Gruppen

この1時間ほどのツアーはひとりでも8人以上のグループでも楽しめる構成になっている。子供は6歳以上が望ましいようだ。チケットはオンラインで入手するか、直接センターで購入できる。

Öffnungszeiten: Montag bis Sonntag,10 bis 20 Uhr
Adresse: Zimmerstraße91, 10117 Berlin, direkt am Checkpoint Charl

料金は子供(6-17)および学生11.50 EUR(前売り10ユーロ)、大人14.50 EUR(前売り12.50 EUR)

バス観光もアップデートされているようでなかなか興味深い。

参照記事:techfieber / TimeRide: VR Zeitreise zur Berliner Mauer


Nordbahnhof und Mauerpark / 北駅と壁公園②

前回の続き。現在の壁公園があった場所は、以前ベルリンの北列車(Berliner Nordbahn)のターミナル駅だった。1950年までは「北駅」(Nordbahnhof)と呼ばれていた。

この北列車は、ベルリンとメクレンブルク=フォアポンメルン州にあるシュトラールズントを結んでいた。

19世紀末までは貨物列車のみが運行していたが、東と西ベルリンにまたがる地形だったため、ベルリン分割によって1948年以降はその意味を失うことになる。それでも、路線の一部は1985年に東ドイツ政府が閉鎖するまで利用されていたらしい。

上のマップを見ると、東西ベルリンを分断していた「ベルリンの壁」が壁公園をまっすぐに走っていたことがわかる。

1992年に駅だった敷地のほとんどを利用した壁公園が作られた。当時の面影はほとんど姿を消してしまったが、グライムトンネル(Gleimtunnel)は記念建造物として保存されている。

グライムトンネル、1990年
Von Roehrensee – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0 / Wikipedia

その他にも、駅の壁が一部ヴェディング地区のヴォリーナー通りに残っている。

ヴォリーナー通り
Von Global Fish – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0 / Wikipedia

政治的理由から、戦後それまでポーランドの街、シュテティーンにちなんで名付けられたシュテティーン駅が「北駅」に改名されたのが1950年頃。こちらの「北駅」の名前が「ベルリン エヴァースヴァルダー駅」に変更されのも混乱を避けるためだろう。

最後に、壁公園らしいエピソードをひとつ。

ベルリンの水道局が2018年1月に壁公園の南東に当たる基礎を工事のために掘り返したところ、東ベルリンから西ベルリンに逃げるために掘られたとみられる「地下トンネル」が見つかった。

赤のラインがトンネルの部分を示す。矢印の向きとは反対の方向に逃亡したことになる。

トンネルの全長、約80メートル。トンネルは壁の下を抜け、オーダーベルガー通りに繋がっていた。

参照ページ:
Wikipedia: Berlin Eberswalder Strasse
Wikipedia: Mauerpark
Tagesspiegel: DDR-Fluchttunnel am Berliner Mauerpark entdeckt

*タイトル写真は新たに整備中の壁公園

Nordbahnhof und Mauerpark / 北駅と壁公園

現在のNordbahnhof(北駅)が以前はStettiner Bahnhof(シュテティーン駅)だった、という話はこちらのブログで書いた

駅関連でもうひとつ、近所に気になっている場所がある。

Mauerparkいわゆる「壁公園」だ。

「壁公園」と言うだけあって、この公園にはベルリンの壁が一部残されている。場所も旧東ベルリンだったプレンツラウワーベルク区と旧西ベルリンのヴェディング区との境に位置している。

青で囲まれた部分がほぼ今の壁公園に当たる

現在の壁公園は週末になると観光客や地元民で溢れかえる。余りにも人出が多くなったので、正直なところ最近は足が遠のいてしまっていた。

いつ頃からだろうか。週末にはカラオケ大会が開かれたり、ストリートミュージシャンやパフォーマーで賑わうようになった。このカラオケ大会、円形劇場のような場所がステージになっており、大勢の前で歌う盛大なものなのだ。

しかし、それも住民の層が変わってきているからだろうか、苦情が出て一時は禁止される方向だった。

Berliner Zeitungの記事より

Kulturgemeinschaft Mauerpark(文化集団マウワーパーク)、住民、地区代表が円卓会議の場を設け、長期に渡る議論の末、壁公園の利用に関するルールが決められた。

石畳の歩道沿いのみでヤーン・スタジアムの立つ丘に向かって演奏することができるらしい。月曜日から木曜日は11から19時半まで。週末や祝日は11時から20時半まで演奏が可能だ。

パンコウ地区から公式プレスリリースが出ているのでご参考までに。

音楽の演奏ができるのは水色の部分。その他、ドッグラン、グリル、フリーマーケット、グラフィティ(以前「ベルリンの壁」、特に緩衝地帯を挟む二つ目の壁だった場所)など細かな指定がなされている。

思ったよりゆるいルール設定のように感じた。ベルリンでは壁公園に類似した騒音問題のケースが続出しており、文化醸造所としてのベルリンの魅力がどんどん下がってきている印象を受ける。

この流れの中、壁公園のカラオケ大会などを許容する方針を打ち出したパンコウ地区の決定は喜ばしいことだと言えるだろう。

今回の決定は壁公園のイニシアチブ団体Save Mauerparkにもポジティブに受け入れられたようだ。

「壁公園が壁公園として存続できることになり、とても喜んでいる。」

今回の投稿で始めて知ったことだが、壁公園に関連する活動グループの数にも驚かされた。

特にFreunde des Mauerparks e.V.「壁公園フレンズ協会」については、1999年から壁公園の整備・実現を促進する市民団体として活動しているようだ。現在の壁公園はあくまでも当初の予定の一部のみが整備工事を終えている段階で、本来ならば西側のヴェディング方面も工事が着手されるはずだったのだという。

ベルリンにありがちな、「当初の予定より大幅に遅れて工事完了」「当初の予定の半分で予算がなくなる」というパターンであるらしい。

北駅の話に至らずに終わってしまったが、次回は「壁公園」と以前の「北駅」について書いてみようと思う。

参照記事:
Singen ist nur in Richtung Osten erlaubt
Freunde des Mauerparks e.V.

Der Stettiner Bahnhof / 北へ向かう駅〜3

北駅公園をカメラ片手に歩いていると、知り合いにバッタリと鉢合わせ。

このエリアはベルリンの壁や二重の壁に挟まれた緩衝地帯などの影響で、壁の崩壊から2003年頃まで手付かずで放置されたままになっていた。

分かりにくいがカササギにも遭遇

その結果、街中に自然のビオトープが生まれ、背の高い草などが生い茂り野生の鳥もたくさん暮らしている。「北駅公園」として整備され解放されたのは2011年になってからのことだった。

とまあ、言わばなんにもないところだ。

それにしても、こんなところで友人に会うとは。偶然もすごいが、ここをひとりで散歩しようと思った友人もすごい。せっかくなので一緒に公園の端まで行ってみることにした。

跨ぐと足に刺さる微妙な高さの柵を超えてフェンスの外へ
©スネママ

こちらの使われなくなって放置されている陸橋も車で下を通るたびに写真に撮っておきたいなぁ、と思っていた廃墟スポットだった。友人がメーキング・オブ的な写真を撮ってくれた。

立ち入り禁止のフェンスが二重に貼ってあったが、外側から中に入って何とか一重に減らす。これはこれでいい感じ。

公園を出てガルテン通りから見上げると、鉄橋の原型をとどめていることがわかる。1952年以降の「北駅」の見取り図でいうと、青で囲んだ部分に当たる。

現行のSバーンはまだ隣の線路を利用して南北へ向かっている。ベルリンの壁はちょうどガルテン通り(Gartenstr.)とリーゼン通り(Liesenstr.)に沿って走っていた。

少し小さくて分かりにくいが、ベルリンの街にはところどころに「ベルリンの壁通り」(Berliner Mauerweg)というグレーの表示が出ている。全長160kmで14のルートに分けられた、それぞれ7kmから21kmの長さのサイクリングルートである。

自転車で通りかかった父親と小学生くらいの息子が、この場所で陸橋や残存する壁の方を指差して、「向こうが東ベルリン、こちらが西ベルリンだったんだよ。」と当時の話をしていたのが印象的だった。

自転車でベルリンの壁跡の気になるルートを回ってみるのも面白そうだ。

Der Stettiner Bahnhof / 北へ向かう駅〜2

前回の続き。ベルリンのミッテ区、現在「北駅」(Nordbahnhof)のあるインヴァリーデン通り/ガルテン通り近辺一体のエリアについて。

高台にポツンとひとつだけ立っている北西方面の出口から外へ出ると、これまた新しくできたクライミング施設やビーチバレーボール施設のある公園が道路を渡ったところに続いている。

Nordwestlicher Zugang an der Julie-Wolfthorn-Straße

これまでは特に用事もないので、わざわざ歩きに行ったことのない場所である。でも、今日はカメラ片手の散歩なので足を踏み入れてみることに。

少し入って後ろを振り返ると、これまた何ともアンバランスな風景が広がる。Sバーンの北側の入り口にあるSの看板、すぐ側に建設予定の高級マンションの入居案内板などが見える。遠目にテレビ塔も見えた。

ベルリンの壁跡が敷地を貫くマンション。高値が付くことだろう。これが完成する2021年頃にはまたこのエリアの持つ独特の景色が変わっているかもしれない。

入り口と反対側を見てみると、驚くほど何もない空間が広がっている。左手にクライミング施設のMOUNT MITTEとその背後にはドイツ鉄道(DB)のオフィスが並んでいるのが見える。

壁と手すりのようなものが見えたので、そちら側を歩き後ろを振り返る。またテレビ塔が見える。お気付きの方もいるだろうが、この公園3メートルほどの高台の上にあるのでテレビ塔がよく見えるのだ。

これも実は当時の名残で、1842年開設されたシュテティーン駅のほとんどの建物は道路から3メートル上の高台に建っていたらしい。よく見ると、当時の線路跡などが所々に残っているのがわかる。

この公園、もしかしてジョギングに最適なのでは!?

1842年に開設され、1950年にそれまでのポーランドの地名が当てられていたシュテティーン駅を改め、Nordbahnhofと改名された「北駅」。

この駅のもうひとつの顔は、当時の西ベルリンと東ベルリンの境界線としての機能である。ガルテン通りのレンガで作られた駅の壁が「ベルリンの壁」としての役割を担っていた。

ガルテン通りの壁

そして、先ほども少し触れた公園内に400メートルほど残るもうひとつの壁だ。二つ目の壁はHinterlandmauerと呼ばれ、一つ目の壁と無人地帯を挟んで立てられた壁に当たる。

Hintermauer

この公園の名前はPark am Nordbahnhof(北駅公園)だが、この場所特有の空気の出所がようやく解明した。

北駅の歴史とベルリンの壁の歴史を感じることのできる公園なので、機会があれば是非歩いてみてほしい。

もう少し続きます。

参照HP : ミッテ区プレスリリース

Osterhase / イースターとうさぎ

ヨーロッパでは一般的なイースターのお祭りも日本ではそれほど馴染みがない。

イースターエッグのタマゴは生命誕生の象徴で、うさぎは多産である。このことから、生命の復活と繁栄を祝うイースターのシンボルとなっているそうだ。

さて、そんなうさぎ繋がりで今日はベルリンのヴェディング地区で見つけたある「うさぎ」について少し書いてみよう。

写真のストレージアプリのFlickerを以前使っていて、一時期うさぎのモチーフを集めていたことがある。

Kreuzberg 2004

どうしてうさぎだったかというと、モスクワの友人に何かのきっかけでzaichikというニックネームで呼ばれたからだったように思う。

Mitte 2004

うさぎの落書き、うさぎのモチーフ、うさぎの、、、あれ?なぜこんなところにうさぎが!?

Wedding01: The trace of the Berlin wall. 2004

と、偶然ベルリンを歩いていて歩道に見つけたのが、こちら。画面右上のベルリンの壁跡のそばにうさぎのモチーフがアスファルトの歩道に埋め込まれている。

このうさぎのシンボル、もう見つけたのはずいぶん前になるが、先日フェースブックを見ていると、このうさぎについての記事が流れてきた。

ベルリン在住のアーティスト、カーラ・ザクセ(Karla Sachse)による「うさぎの原っぱ」”Kaninchnefeld”という作品。1999年にヴェディング区とミッテ区の間に設けられていた国境検問所のあったショセー通り(Chauseestraße)に作られた。

この検問所はDDRによって設けられ、通行証を所持していない者は通過できない場所だった。壁と壁の間に存在した無人地帯では、地面に穴を掘って侵入した野ウサギたちが平和に暮らしていたというのである。

ベルリンの壁の存在と無人地帯をうさぎの視点で見せたショートフィルムのトレーラーがあったので、ご参考までに。

The untold story of wild rabbits which lived between the Berlin Walls. For 28 years, the Death Zone was their safest home. Full of grass, no predators, guards protecting them from human disturbance. They were closed but happy. When their population grew up to thousands, guards started to remove them. But rabbits survived and stayed there. Unfortunately one day the wall fell down. Rabbits had to abandon the comfortable system. They moved to West Berlin and have been living there in a few colonies since then. They are still learning how to live in the free world, same as we – the citizens of Eastern Europe.

Rabbit à la Berlin / Królik po berlińsku / Mauerhase

ベルリンの壁が崩壊し、無人地帯が消滅することで、野うさぎたちも住処を失ってしまう。気まぐれな政治に振り回されるのは人間だけではなかったのだ。

壁の記憶を忘れないようにと、ウサギのモチーフを道路に刻んだアーティスト。とても好きな作品だ。

参考サイト:
Das Kaninchenfeld: Langohren zum Nachdenken
Kaninchenfeld.de
Rabbit à la Berlin