NULL / シャウビューネでの観劇

ヘルベルト・フリッチュ(Herbert Fritsch)監督作品、der die mannに参加している友人のお誘いで、フリッチュ監督としてはシャウビューネでの2作目に当たるNULL(ゼロ)を観に行く機会があった。

私自身も彼の作品を観るのは今回で2度目である。劇場内に入ると、前回と同様ミニマルな舞台装置が目に入った。

舞台中央にチョークのようなもので描かれた円と線からなる幾何学模様。舞台上手には布や紙で作られたカーテンのようなものが何枚か垂れ下がり、下手には大きなスクリーンが設置されている。舞台の隅には赤と黄色の円や、円がくり抜かれた四角いアクリル製ボードが並べられている。そして、長い1本のバー。

スクリーンショット 2018-05-02 20.00.54
NULL / Foto: Thomas Aurin 2018

写真でも分かるように、フリッチュ作品では役者が安全ベルトで吊られたり、フォークリフトで3mほどの高さまで持ち上げられたり、バーでサーカスのような動きを披露したり、とかなりアクロバティックな技術も求められる。

サウンドや発語、ライティングと壁に映し出される影、役者の動きなどそれぞれの要素が緻密に計算されているようなタイミングありきの演出で、観客も退屈する暇がない。

スクリーンショット 2018-05-02 20.02.46
NULL / Foto: Thomas Aurin 2018

なんと、この日は公演中に観客席にいた女性が突如、歌いながら舞台に上がるというハプニングも起きた。それに対する役者のアドリブも自然なもので、演出なのかそうでないのか観ている方にはわからないほどであった。

「いやー、あれには驚いたよね。」と公演後に役者さんのひとりが教えてくれたので、事故だったことが判明し二度ビックリ。舞台監督のアシスタントの女性がすぐ側に座っていたことも幸運だったように思う。

役者さん曰く、この作品のために6週間もの間、連日4時間ほどのリハをしたのだそうだ。シナリオなどは特に用意されておらず、テーマやそのテーマに対するフィーリングのようなものを掴むために何度も何度もコレオグラフィーを繰り返す。その上で、これだ!という振り付けだけが残され、消えていったアイデアも数多くあるのだろう。

タイトル画面の大きな「手」。この大掛かりな装置だけが先に作られ、何に使うのかは特に決められていなかったそうである。

これまでに観たフリッチュ監督の作品は言葉が分からなくても十分楽しめるので、観劇にどこか抵抗のある人にこそお薦めしたい。

DUDU TASSA & THE KUWAITIS / イスラエル発のクロスカルチャーバンド

またあるツィートがきっかけのネタ。今回のキーワードとの出会いは素晴らしいものだった。

DUDU TASSA & THE KUWAITIS
今、「世界一かっこいいバンド」だと思う、という一文に惹かれ映像リンクに飛んでみた。それがこちら。

ドゥドゥ・タッサとクウェーティー兄弟(Dudu Tassa & the Kuwaitis)の「サーイブ・ヤー・ガルビー・サーイブ / “My heart has shattered into pieces”」。


Dudu Tassa & the Kuwaitisはイスラエル発のクロスカルチャーなユダヤ・アラブプロジェクトで、20世紀初頭のイラク音楽界で最も人気のあったAl-Kuwaiti Brothersの音楽を現代風にアレンジしてリバイバルさせている。
ドゥドゥ・タッサはイラクのユダヤ人、そしてイエメン人としての家系を持ち、自身のルーツを探るうちに素晴らしい音楽の歴史と向き合うことになる。彼の祖父と大叔父はクウェーティー兄弟として知られ、20世紀初頭から半ばにかけてバグダードで偉大な作曲家そして音楽家としてイラク、そしてアラブ世界を代表する音楽家にまで成長していく。彼らは1950年代にユダヤ人であることが理由で、イラクで迫害を受けたためイスラエルに移住している。
参照:https://www.the-kuwaitis.com/about1


私自身のアラブ音楽との出会いは、ベルリンに来てすぐに知り合いになったアルジェリアとフランス人のハーフだったミシェルやその友人たちが聴いていたシェーブ・ハレド(Cheb Khaled)他のライ音楽や、ルーム・シェアをしていたシリア人の同居人が自宅で演奏していたダルブカや常に流れていたシリア発、その他のアラブ音楽である。

ドゥドゥ・タッサとクウェーティー兄弟の「サーイブ・ヤー・ガルビー・サーイブ」、には何と言うか一撃でやられた。

たまたま、イスラエルやシリア関連のネガティブな記事が気になっていたところだったのだが、人というのは基本的に自分には理解できないものや知らないものに対する恐怖心というものがあり、それが様々な障壁を作ってしまうのではないかと思うのだ。

音楽から入ってしまえば、そんな恐怖心も一瞬で払拭できるはず。彼の歌声を聴きながらそんなことを考えた。

今のこのタイミングで彼らをベルリンに呼ぶことはできないものだろうか。是非、彼らの紡ぎ出す音を生で体感してみたいものだ。

そんな彼らのプロジェクトによるファーストアルバム、Dudu Tassa and the Kuwaitis (2011)のレコーディングの様子はIraq’n’roll (2011)に収められている。

このアルバムに収められている曲はイラクのアラビア語で歌われているが、タッサはこのプロジェクトのために特別に言葉を学んだのだそうだ。

アラビア諸国やイスラエルの歴史については正直、ほとんど無知に近い状態なのでここで自分の見解を述べることはしないが、少しづつでも知る努力をしていこうかと思っている。

タイトル写真:https://aicf.org/artist/dudu-tassa/

Jeans Team / 90年代のベルリン⑧

Galerie berlintokyoでは、展覧会やセッション、パフォーマンスやハプニングと毎回何かしらイベントが行われていたのだが、中でもJeans Teamは耳に残るサウンドやほわんとしたビジュアルでとても印象に残っている。

Jeans Teamが1996年にリリースしたビデオアルバム(!)はVHSテープに収録され、手縫いのジーンズケース仕様になっている。我が家にはVHSビデオがまだ見ることができる環境なので、これはかなり魅力的なフォーマットだ。

このビデオは2017年にベルリンのNadel Eins Studioにて再度マスタリングされている。

Jeans Teamは1995年にReimo HerfortとFranz Schütteによって結成されたバンド。当時はアルバムのリリースなどは全く考えていなかったそうだ。

そんな彼らのファーストVHSアルバムはGalerie berlintokyoで展示販売された。

“Henning”は、自宅で録画録音しました的なゆるーい感じがとても好きな曲。この音を聴くと当時を思い出す。

そんな彼ら、今でも活動を続けているようでベルリンのヴェディング地区にあるゲズンドブルネンセンターをテーマにした曲も面白い。とにかくベルリンテイストがぎっしり詰まったローカルバンドである。

An der Kasse bei real,- …GESUNDBRUNNEN CENTER! Alle narven sie totall… GESUNDBRUNNEN CENTER!

彼らの楽曲はドイツ語のリスニング強化にもいいかもしれない。覚えやすいメロディーにスラング。生きたドイツ語が盛りだくさん。オススメです!

タイトル写真by Sim Gil、その他の素材©Jeans Team

Gelerie berlintokyo / 90年代のベルリン⑦

去年だっただろうか、娘をピアノ教室に迎えに行った際、同じく子供を迎えに来たのであろう見知らぬ父親に声を掛けられた。「あれ?どこかで会ったことない?」

記憶を掘り起こすのに数秒かかったが、その人物こそ、当時まだ開発が進んでいなかったHackescher Höfeから目と鼻の先に”Galerie berlintokyo”を立ち上げたラファエル・ホルゾン(Rafael Horzon)だった。1996年のことだ。

ベルリンのミッテ地区がまだ開発の波に飲まれる前のRosenthaler Straße。以前は「小さな地下の体育館」だった場所に、アートギャラリーでもなく、日本とは直接何の繋がりもない”Galerie berlintokyo”をイニシエーター、経営者としてスタートさせた人物である。

スクリーンショット 2018-03-11 13.57.41

ギャラリーでの初展示では実在しない日本人アーティスト、Masahiro Sugimotoの作品として自分の使っていたトースターを展示販売したんだそうだ。CaptainHoney Suckle Companyもこのスペースでパフォーマンスや展示をしていた。

ラファエルの企てはキャッチーなネーミングと90年代のベルリンの持つツァイトガイストに見事にハマり、Vogueが„Der modernste Keller Europas“「欧州で一番モダンな地下室」と紹介し、カッセルで5年に一度開かれる大型現代美術展Documenta X からも声まで掛かる羽目に。

「このギャラリーが単なる『ギャラリー』のひとつになってしまうなんて、何か違う方向に進んでいるとショックを受けたのです。」とラファエルは自伝“Das weiße Buch”の中で述べているそうだが、彼はこの件をきっかけにGalerie berlintokyoからさっさと手を引いたのである。

当時から引き際が潔いというか、時代の波に乗るのが上手い人だというイメージがあった。かなり前からTor Str.にMobel Horzonという不思議なスペースがあるのだが、どうやらこれも彼の多くの企てのひとつのようだ。

スクリーンショット 2018-03-11 11.08.38
LOGO / MOEBEL HORZON

まさかあのガラーンとしたスペースに白い本棚が立っているだけの場所が、ラファエルと関係があったとは。。前を通るたびに感じていた違和感の正体はこれだったのか。相変わらず恐るべしコンセプトの持ち主である。

東ドイツのテイストを彷彿とさせる微妙なデザインと配色のロゴに店構え。もはや展示ルームですらない不思議な空間に、やけに洗礼された真っ白な本棚だけが無造作に置いてある。スタッフの姿を見ることもほとんどないが、なぜか主張が強い。

どこまでが冗談でどこまでがビジネスなのか本当につかみどころがないのだが、この人、会社をいくつも設立している。今でもやはり、ミッテの変化に軽やかに便乗しているというわけだ。

言葉のセンスもピカイチだし、ピアノ教室で再会したのも何かの縁なのでそのうち時間を作って頂いて色々とじっくり聞いてみたいものだ。

参考サイトその他:
タイトル写真はgalerie berlintokyo spielkreis 02 ’98から引用しています。

Berlin 1996 / 90年代のベルリン⑤

Captain繋がりで、当時活動を始めたばかりのHoney Suckle Companyとも接点ができた。

「今日、午後からマウワーパークでアルテの撮影があるから好きな服を持って遊びに来ない?」と声を掛けてもらい、よく分からないけれど面白そうだった(当時は常にこういう状態)ので語学学校が終わってから、あわてて撮影場所だと指定された壁公園内にあった建物というかバラック小屋へと向かった。

HSC3
©Mariko Kitai

狭いスペースだったが、既に彼らの世界観が出来上がりつつあった。壁の棚には使い古されたぬいぐるみが並べられ、インスタレーションが壁を所狭しと覆っていた。どうやら、ここで各自が持ち寄った服で思い思いにスタイルを作り上げていく、というコンセプトらしい。

リーダー格だったペーターの独特でずば抜けたセンスには一目置いていた。見よう見まねでテープを貼ったりチューブをくわえてみたり、思いつくままその辺に散らばっていたパーツやアイテムを組み合わせて行く。カメラも気付いたら回っていた。

仕上げにペーターの手が入ると、メンバー全員がHoney Suckle カラーに染まってしまうのがスゴい。Captainもいつの間にかライブパフォーマンスを始め、脱皮の終わったメンバーは思い思いに身体を動かし、またいつものカオス状態が出現した。

1996 “Transformation Station”, Happening for Arte TV, St. Kildas Trips Drill, Berlin

そう、当時のベルリンはそれこそ、どこへ行ってもカオスだったのだ。道を歩いていても、地下鉄に乗って移動していても、見るもの聞くもの目にするもの、全てが混沌としていた。

そういう過渡期にあったベルリン独特の空気を彼らは痛い程感じ取って体内に取り込んで再現し、昇華させようとしていたのかもしれない。

後にモスクワとベルリンを頻繁に行き来するようになってから、彼らとの繋がりは途絶えてしまったが、Honey Suckle Companyとしての活動は2009年頃まで続いていたようだ。

先日、東独の写真家について投稿したが、たまたまその現代写真ギャラリーで彼らの活動を総括したカタログの出版を記念して個展が2016年に開かれていたことがわかった。幼稚園からすぐ側のギャラリーなのに展覧会に気付かなかったのは非常に残念だ。

スクリーンショット 2018-02-24 16.13.58
photoexhibition
DAS BUCH
3.June – 30.July 2016
Galerie für Moderne Fotografie


以前、息子とミッテを散歩している時に偶然、洒落たブティックの前で休んでいたペーターにバッタリ会ったのだが、このブログを書くに当たり何となくFBで本人を探して友達申請をしてみた。

彼にも近いうちに会って色々話を聞いてみたいと思っている。

タイトル写真:©Honey Suckle Company

Berlin 1995 / 90年代のベルリン④

思えば93年の一人旅、ベルリンでまずフランス人のミシェルと知り合いになり、Captainが現れ、イヴォンヌに繋がるわけだけれど、95年に1年くらいのつもりでふらっと来た私を大歓迎してくれたのもやはりミシェルだった。「ハハハ!ほらやっぱり帰ってきた。」

Broschwitz98

面白いと感じるところがよく似ていたからなのか、ミシェルとは頻繁に夜のベルリンの街を一緒に飽きもせずウロウロと歩き回ったものだった。

その日も、そんなわけでアパートへの帰り道、夜中を過ぎたというのに煌々と明かりの付いたギャラリーを見つけ、二人でなんだなんだと不思議そうに覗いていたわけだ。そこで白い大きなピラミッドのようなインスタレーションを作っている3人組と目が合った。

「こんな時間に何してるんだろうね?」(お互い様なんだが)なんて言っていると、「入って、入って!」と手招きされたのでとにかく中へ。「明日から展覧会だから、その準備中なんだよ。」と教えてくれたのがモスクワからやって来た建築家たちだった。

モスクワと言われても、正直その時は余りピンとは来なかった。ベルリンに来るまでは奈良に住んでいたので、モスクワはとても遠い存在でしかなかった。ネットもなく、今みたいにやたらめったら他国に住んでいる人たちの発言が飛び込んでくる環境がなければ、それが普通なんだろう。

スクリーンショット 2018-02-23 12.53.46
Ленин В. И.собственный архив

展覧会のタイトルは「Что делать? =Was tun?(何をなすべきか?)」。まるで自分に投げかけられた問いかけのような気がしたものだ。実はレーニンも同タイトルで1902年に著作を出版している。写真はその初版の表紙だ。

さて、この3人のモスクヴィッチ(モスクワっ子)。初めて会った気がしないほど距離感がなく、ドイツ語ではほとんど話せないのでデタラメな英語で遅くまで話し込むことになる。

たまたま住むことになったイヴォンヌのWGアパートから徒歩圏内のギャラリーだったため、モスクワへの入り口へと繋がってしまったわけだ。ベルリンに来てまだ3ヶ月ほどだったように思う。

そのギャラリーでかかっていた音楽の類がこちら。やっと自分のテイストに合う音楽環境と出会えてとても居心地がよかったのを覚えている。

ここで出会ったモスクヴィッチにはその後も随分と色々な影響を受けることになる。今、ベルリンで時折「絶賛東欧祭り開催中」に陥るのも間違いなくその名残である。

この頃に聴いていた音楽は今、聴いても全く違和感がない。どうやら私の音楽テイストは95年にある程度決まってしまったらしい。

逆に今、自分のテイストにぴったりくる音楽というのはどういう音楽なんだろう?

Sound CloudやSportifyに任せてもなぜか余りアンテナに引っかかってくるものがない。そう言えば、以前は友人や知人といった人づてで音楽に出会うことが自然なことだった。

また機会があれば本格的に今の自分にフィットする音を探してみようと思っている。

追記:SNSのおかげでDUDU TASSAを知ることができた。感謝!!

Berlin 1995 / 90年代のベルリン③

前回の続き。
偶然、道端でバッタリ出会ったイヴォンヌのWG(Wohngemeinschaft)アパートの一室に住めることになったが、他のルームメートはこんな感じだった。

  • キース:確かNY出身のアメリカ人で、ドラムプレイヤー。ソニックユースの欧州ツアーではステージスタッフなんかもしていたようだ。
  • ハイケ:ベルリン自由大学の生物学科専攻の学生。テスト前になると勉強ができる静かな環境を求めて、知人のアパートとWGルームを交換していた。テスト前は常に避難を余儀なくされていた気の毒な学生。

学生ハイケの存在は随分と助けになったものだが、右も左も分からないナイーブな私をちょっと小馬鹿にしたようなところもあったような気がする。

それも今から思えば致し方ないことだが、日本でも一人暮らしの経験がなく、突然ハードコアな環境に知らずに自らを投入してしまったことで毎日映画を見ているような感覚に襲われていたことは否めない(決して誇張ではなく)。

イヴォンヌは音楽活動をしながら、オラーニエン通りのこれまたハードな居酒屋Franken Barで週に何度か働いていて、仕事帰りの日はほぼ機嫌が悪かった。それも最悪レベルで。そして、何時だろうがお構いなく大音量でハードな曲を聴いたりもしていた。

はっきりと物を言うハイケとイヴォンヌはよくぶつかっていた。ただ、そんなハイケをイヴォンヌもどこかで認めていたように思う。

1995年から1996年にかけてはちょうど、彼女のバンドJingo de Lunchも解散の危機を向かえていたらしく、バンドメンバーとの衝突も激しかった時期だ。朝っぱらからF〇〇K!の連続だったし、いつ怒鳴られるかと共同のオープンキッチンでコーヒーもオチオチ飲めなかったのである。

そんな気性の激しい女性だったが、カリスマ性は抜群だったし、なぜかピチカートファイブや映画「たんぽぽ」のファンでもあった。

「もっと自分のルーツを大事にしなきゃだめだよ。」という彼女の言葉が今でもとても印象に残っているし、「あのおぼっちゃんタイプより、あっちのモスクヴィッチ(モスクワっ子)の方がソウルがあると思う。いいんじゃない?」と相談してもいないのに、助言をくれたこともある。

10年ほど、匿名性を求め静かに暮らすためにベルリン、そしてドイツを離れていた彼女だが、どうやらまたベルリンに戻ってきているらしい。そのうち覚悟を決めて連絡してみようかと思っている。Franken Barに行けば間違いなく会えるのだろうけれど。

タイトル写真:映画「たんぽぽ」のワンシーンより

Berlin 1995 / 90年代のベルリン②

前回のCaptain Space Sexだが、95年にベルリンを再訪した時にはトルコ市場として有名なノイケルン地区のマイバッハ運河沿いのアパートに引っ越しをしていた。

当時のアパートにありがちな、中庭を挟んで後方の建物内(Hinterhof)にあり、階段の途中にある共同トイレ (Außenklo)という最強のコンビネーション。しかもシャワーなし。

シャワーはどうしているのかと尋ねると、近くの市民プールに行って浴びているという答えが返って来た。どうやら身体も動かせるし、一石二鳥らしい。

スクリーンショット 2018-02-18 19.37.45
参考写真:Winsstraße (P-Berg)2013©Foto: Gudath
スクリーンショット 2018-02-18 18.35.41

ある日、クロイツベルク36を歩いていると、Captainの顔見知りが声を掛けてきた。スタイル抜群のドレッドヘアの女性だ。常にド派手な格好でウロウロしている彼を見逃す人などいない。その女性との立ち話で「あ、日本人なんだ。じゃ、寿司作れるよね。うちに来ない?」と、唐突にWG(ルームシェア)のお誘いを受ける。

願ってもないお言葉に深く考えることなく頷く。ところがこのWGがこれまた強烈だった。WGはまさにクロイツベルク36のど真ん中。場所はオラーニエン通りからわずか道一本入ったところにあった。その通りの行き止まりにちょうど壁が立っていたらしい。

当時はクロイツベルクもSO36とSW61という二つの呼び方があり、「36は燃えている、61は眠っている」などと言われたものだ。端的に言うと、36はより貧しく、61は落ち着いたブルジョワの小金持ちエリアというわけだ。

5月1日のメーデーの日は外を歩けないほどの騒ぎになるのもSO36のオラーニエン通りだった。普段から闘犬を引き連れたパンクたちが闊歩しているエリアなので、ある意味仕方がなかったのかもしれない。

Captainから繋がったのは、そんなSO36を代表するパンクバンドJingo de lunchのカナダ出身女性ボーカリスト、イボンヌ・ダックズワーズだった。

全く無知というのは恐ろしいもので、その日たまたま機嫌の良かった彼女の笑顔につられて二つ返事をしたことを後になって悔やむことになる。

そんなカリスマ性を持つイボンヌが主演の93年にクロイツベルクを舞台とした映画が「Trouble」なのだから、本当に笑えない。

この密度の濃すぎる毎日が、ベルリンにやって来たばかりの自分にこんな形で訪れようとは予想だにしなかった。

当時のシーンの雰囲気が良く伝わると思うので映画のリンクを貼っておいた。オラーニエン通りのフランケンという酒場も出て来る。ご参考までに。

タイトル写真:トリミングして使用©Georg Slickers

Berlin 1993〜94 / 90年代のベルリン①

日本の大学では英米文学専攻だったので、安易な考えで卒業したらアメリカかイギリスに1年くらいまずは住んでみよう、と思っていた。

そして、その下見も兼ねてまだ行ったことのないヨーロッパに一人で旅をした。

ビートジェネレーションに興味があったので、在学中にサンフランシスコやニューヨークにはそれまでにたった一度ではあるけれど足を運んでいたためだ。

ルートはざっくり決めただけ。ロンドンIN、パリOUT。後は好きに動いてみる。そこで、イギリス各地(ランズ・エンドからウェールズ、果てはエディンバラまで)を転々とした後、アムステルダムからベルリンまで来た時点で、疲れが溜まったのか体調を崩し風邪を引いた。

93年のベルリンの夏は天気が悪く、かなり肌寒かったように思う。街は灰色でがらーんとして寂しげだし、ひとりで道を歩いていてもガチャガチャと声をかけられることもなかった。

ベルリンはロンドンともアムステルダムやパリとも違い、当時はまだ救いようのないほど地味で暗い街だったのだ。

宿泊先のユースホステルもなぜかすぐ側に娼婦が立っているような辺鄙な場所にあってますます気が滅入った。どこまで行っても退廃的。

それなのに、なんだろう?一番リラックスしてマイペースで歩ける街だったのだ。

アレキサンダー広場でミュージシャンがパフォーマンスをしているのを見ていると、のびのびと楽しそうに踊っているグループがいた。

今から思えば、観光客相手のスリにでも遭いそうな状況だが、何だかくったくのない笑顔につられて打ち解けてしまう。そこで知り合ったのがミシェルというアルジェリア系フランス人で、彼に「東ベルリン側は面白いよ。コルヴィッツ広場付近を歩いてごらん。」と教えられた。

当時のコルヴィッツ通り(プレンツラウワーベルク地区)には今みたいなピカピカの高級アパートなんて一軒もなく、下を歩こうものなら今すぐ崩れ落ちそうなバルコニー付きのアパートが並んでいただけだ。

プレンツラウワーベルクのBla Blaだったかな?「ペチャクチャカフェ」的なネーミングのカフェでAkademie der Künste(芸術アカデミー)で開催中の何やら不思議な展示内容のフライヤーを見つけたので、ふらっと覗きに行って見た。芸術アカデミーがまだティアガルテンの側にあった頃だ。

そこには今までに見たことのない混沌としたカオスが。。平日の夕方だったからか、ほとんど見に来ている人もいなかったように記憶している。

そして、ミラールームのような展示に入ってみると、全身真っ赤なライダースーツのようなものに身を包んだ人物が近づいて来た。製作者のCaptain Space Sexご本人である。とまあ、見るもの会う人全てが意味不明で面白かったのだ。

スクリーンショット 2018-02-15 11.32.00

カタログはあいにく日本に置いてきてしまっていて、手元にないがネット上でカタログ表紙の写真が見つかったので載せておこう。

因みにこの表紙の網タイツを履いているのもキャプテン。

なんとYouTubeの映像が見つかったので貼っておこう。あのミラールームも登場している。

そして、この人物が住んでいた(今から思えば不法占拠のスクワットだと思うが)のが何を隠そうコルヴィッツ通りだったというわけだ。

ミシェルの言ったことに、「なるほどー!」と大納得したのは言うまでもない。