Акунин und Akunin / アクーニンと悪人

先日、本棚を整理していてボリス・アクーニン(Борис Акунин)の書籍「自殺の文学史」が目に留まった。ボリス・アクーニンというのはペンネームで本名はグリゴーリイ・チハルチシヴィリ(Григорий Чхартишвили)

日本文学研究者でもあり、月刊文芸誌「外国文学」の副編集長を務め三島由紀夫や村上春樹らを紹介したのも彼である。

年の瀬にこの話題もどうかとは思うが、そんな彼の渾身の力作である文学的自殺百科とも呼べる「自殺の文学史」について少しご紹介しようと思う。

この本は著者が14歳という多感な年頃に三島の割腹自殺に衝撃を受けた原体験が動機の一つになっているという。ここでは主にドイツ・ロシア・日本の比較文化論とも言える側面を見てみよう。

ロシア式自殺

ロシア人、とりわけロシアの作家にとって、真面目すぎるのは気がとがめるものだ。ロシアではユーモアの欠如が、悪徳か、あるいは少なくとも欠点だと見なされる。

「純ロシア的自殺」とは何であろうか。それはニコライ・ウスペンスキイがやったように、人間の外貌を失うまで飲んだくれ、ゴミの山に埋もれて、なまくらナイフで喉をむりやり切り裂くような死に方である。

ドイツ式自殺

ドイツ人はというと(個々のドイツ人を見れば、機知に富んだ人もいるかもしれないが、そうではなくドイツ人全体として)真面目であり、仕事と気晴らしを一緒くたにはしない。哲学する時間と心底から大笑いする時間は別々である。unseriösという語は、単に「不真面目」なだけでなく、「当てにならない」「しっかりしていない」「信頼に値しない」といった、非常に魅力のない性質を表す。

「純ドイツ的自殺」とは何であろうか。それはフィリップ・バッツ(1841−1876)という名の前途有望な若い哲学者が、ショーペンハウワーに傾倒するあまり、『拒否の哲学』という優れた本を出し、ただちに理論的計算を実践に移して、素晴らしく鋭利なゾーリンゲンの剃刀で喉をかき切ったような死に方である。

日本式自殺

行き過ぎた自己規制の危険については、ドイツ人の隠された熱情性との関連ですでに述べたが、日本人には同様の性質がさらに強く表れている。強い感情をあけすけに示すことは、大昔から不作法なこととされ、抑制と慎みが高い徳とされた。こうした心理的構えによって日常生活のささいな衝突は避けられるが、負の感情に出口は与えられない。強いストレスがかかったときに行為の抑制的なメカニズムが純文に働かないなら、外にと同様内に向かっても攻撃性の暴発が生じる可能性がある。

上記はあくまでも本書の単なる一部分でしかないのだが、チハルチシヴィリはこのように作家と自殺について国を跨いで興味深い考察を行っている。

ところで、現代の作家と自殺はそれほど縁があるように思えないのだがいかがだろう。「書く」という行為の重さが時代と共に変わってきているからなのだろうか。ブログやツイッターなどSNSの発達により、人々はそれぞれの想いを瞬時にテキスト形式でネット上に公開できるようになった。

そこにはもはや人一人の生命を削って一冊の本を書き上げるのとは程遠いスピード感と軽やかさがある。皮肉なことに、それらのある意味無責任ともいえる所在不明で匿名の言葉たちには、時には他者を傷つけ、果てには死に追いやる危険性も含んでいる。

そんなことをぼんやりと考えているうちに、どうやら今年も終わりそうだ。

ロシアのシャーロック・ホームズとも言えるエラスト・ファンドーリンの冒険シリーズ「堕ちた天使」(Азазель)は邦訳も出ているので機会があれば是非読んでみて欲しい。

作家の近況が気になりネットで検索してみたところ、チハルチシヴィリ氏、プーチン政権による強権支配やウクライナへの介入に「怒りがこみ上げるだけ」になり、2014年にはロシアを離れロンドンなど西欧に滞在するようになったそうだ。著名な作家に愛想を尽かされるロシア、というのもソビエト時代から何一つ変わっていないのかもしれない。



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