ベルリンでの引っ越し記録(1995年〜2001年)

ここ数年、ベルリンの住宅事情があまりにもひどいので、90年代のベルリンにおける住宅事情はどんな感じだったのか、全く参考にはならないが比較対象としては面白いであろう個人的な体験をまとめてみようと思う。

前提として当時はまだインターネットがほとんど普及しておらず、スマートフォンもない時代だったということ。実際に現地に来てからでないと、なかなか情報が得られないことなどを念頭に置いていただきたい。

1995年4月 Maybachufer(旧西ベルリン、ノイケルン地区)

1995年の3月に大学を卒業し、4月の初旬にベルリンに向けて出発した。持ち物はスーツケースひとつとダンボルー箱ひとつ。空港には1994年の春休み、2回目のベルリン訪問の際に知り合ったドイツ人が迎えに来てくれていた。当初は彼の住んでいたアパートに住むことになっていたからだ。

タクシーでアパートへ向かう。到着した先はMaybachufer沿いのボロボロのアパートだった。彼の普段の出立から普通の物件ではないことは事前にある程度予想は付いたが、軽くその予想を下回るクオリティーだった。キッチンとワンルームのみのアパートには、トイレもシャワーも見当たらなかったのである。

これはなかなか幸先がいいではないか。着いた初日から「えっ!?」の連続。

階段の踊り場付近に共同トイレがあったが、シャワーはどこを探しても見当たらない。「シャワーがないのは予想外だった。どこで浴びてるの?」と尋ねると、近所の公営プールだという返事が帰ってきた。なるほど。仕方がないので、シャワーを浴びるのは翌日に延期である。着いた翌日にプールに行ってシャワーを浴びたのかどうか。そういえば家賃を払った覚えもないし、請求もされなかったので不法占拠でもしていたのかもしれない。その辺りの細かいことはもう忘れてしまった。正面玄関の扉を開けると、日によってはトルコマーケットの喧騒が聞こえてくるエキゾチックなエリアだった。

「ベルリンに来たはずなんだけどなぁ。ここは一体どこなんだ?」

1995年7月頃 Kreuzberg SO36(旧西ベルリン、クロイツベルク地区)

アパートにシャワーがないのはさすがに困るので、どうしたもんかな、と思っていたのだが、ある日その彼と連れ立って近所を歩いていたら彼の知り合いにバッタリ会った。

「ハロー、日本人なの?寿司作れるよね?うちに来ない?」

寿司云々より「シャワーはある?」問題はそこなのだ。なんとそのWG(シェアハウス)にはバスルームがふたつもあるというではないか。シャワーとバスタブ!文句なし、ということで部屋を見せてもらい、即引っ越しを決めた。シャワーさえ浴びられればそれでよかったのだ。そこの家賃がワンルーム(27qm)で165DM(約80ユーロ*光熱費は別)程度だった。オープンキッチン、リビングにはビリヤード台、オーナーのカナダ人女性ミュージシャン(ボーカル)にアメリカ人の男性ミュージシャン(ドラマー)、ドイツ人の生物学専攻の女学生という構成だった。

ボロアパートから一気にロフト生活へレベルアップ!と思いきや、クロイツベルクのSO 36ど真ん中という立地とオーナーの交友関係のため、かなりパンクな生活環境になったわけである。闘犬はいるわ、その友人も似たような犬を連れてくるわ、ハードロックのバンドメンバーはやってくるわ、そのまた友人のタトゥー屋さんも来てリビングでタトゥーを入れ始めるわで、それはもう映画を観ているような暮らしが目の前で展開されていた。端的に言うと常にノイジーでクレイジーということになるのだけれど。これぞ90年代のベルリン!そして朝から大声でF○CK!が飛び交っていた。

1996年 Prenzlauer Berg, Bötzow-Viertel(旧東ベルリン、プレンツラウアーベルク地区)

さすがにこれでは疲れるし騒がしい、ということでWGではなくひとり暮らしのためにアパートを探すことにした。するとこれまた、知人の紹介で旧東ベルリンのプレンツラウアーベルク地区にワンルームのアパートがあるという情報を得た。いわゆる自分が出た後の借りて(Nachmieter)を探しているらしい。そのアパートは窓ひとつあるのみの縦長1Kで、石炭を焚べて部屋を暖めるというOffenheizungという物件だった。それも特によく考えずに引っ越すことにした。そこの家賃が254DMだったので、これもまだ200ユーロにはまだまだ届かない程度の家賃だった。大学にも近く便利な場所にあったのだ。

これでようやく静けさを手に入れた、と思ったのも束の間、なんと郵便受けに脅迫状のようなものが投函されているではないか。住み始めてどのくらい経っていたのかは記憶にないが、住んでいたのはプレンツラウアーベルク地区のBötzowエリア。今となってはこの辺りも俳優や女優に人気のエリアだが、当時はまだまだ物騒だったわけだ。手書きで書かれた紙切れを大学に持っていくと大騒ぎになり、すぐに警察に行くように助言された。同級生が数人、心配してアパートまで様子を見にきてくれたくらいだ。当時、家族のように親身になってくれていた方がいたので、手紙を持って相談に行くと「今すぐ引っ越ししなさい。部屋が空いているから」と言ってくれた。その方の長男がちょうどプレンツラウアーベルク地区の給水塔のそばにある屋根裏部屋を改装中だったので、そちらの方がいいのでは、という提案もしてくれたが、ひとりで住む気がしなかったのでシャルロッテンブルク地区の7部屋あるアパートの空いている部屋に住まわせてもらうことにした。これでまた共同生活が始まったわけだ。アパートのオーナー(ドイツの父)とその次男、息子連れのシリア人父親という構成だ。海外からのゲストも多い家だった。

1998年 Charlottenburg(旧西ベルリン、シャルロッテンブルク地区)

そんなわけで今度は年齢が8歳から60歳までと幅広く「父親と息子」で構成された2家庭との共同生活が始まった。前回のクロイツベルク区とは全く違う環境になったわけだが、ここにはなんと猫が7匹もいた。アルトバウという天井の高い古い建造物で7部屋もあるので広いが、とにかく人の出入りは多かった。人も呼びやすかったので、日本から中高時代の同級生が泊まりに来たり、モスクワから人が泊まりにきたりもした。

週末には夕食会が開かれ、その度にいろんなゲストがやってきた。非常にオープンで国際色豊かな家庭だったからだ。ドイツ語での会話には相変わらず苦労していたが、そういった機会を得られたのは非常にいい経験になった。

家族同然の生活のせいか、距離感が近くなりすぎてプライバシーの確保に苦労することもあった。だたし、ベルリンの生活を始める上で、精神的にも大きな助けになってくれたことは今でも感謝してもしきれないくらいである。ベルリンの父にはよく相談に乗ってもらった。家賃の記録が見つからないが、ほぼ家族扱いだったので破格の値段だったに違いない。

結局ロシア人の友人のつてで間借りできるアパートがあると聞き、1年半くらいでそちらに引っ越しすることになった。そちらのアパートは27qmくらいの1Kでキッチンのシンクの下になぜか引き出し式のバスタブが付いているという不思議な物件だった。家賃は1999年の11月で296,51DM(151,60EUR)だった。

1999年 Prenzlauer Berg(旧東ベルリン、プレンツラウアーベルク地区)

またプレンツラウアーベルク地区に戻ってきたわけだが、今回のアパートは壁公園の裏手にあった物件だ。こじんまりとしたアパートだったが、フランス式バルコニーと呼ばれる作りになっていてひとりで生活するには十分だった。

2000年にモスクワへ遊びに行った際に、現地で知り合いになった日本人女性から「面接に行ってみない?」と声を掛けられた。面接先はモスクワの医療クリニックだったが、なぜか面接官が興味を持ってくれたので採用されることになってしまった。ちょうどモスクワでのインターンが始まるタイミングに間借りしているアパートの間借り人が見つかったので、アパートに荷物を置いたままで単身モスクワに飛べたのである。

2001年 Bolshoy Gnezdnikovskiy pereulok(モスクワ、トベルスカヤ通り沿い)

まさかのモスクワ。まさかのひとり暮らし。

クリニックの人事担当には「外国人が現地入りしてからアパートの確保をするのは難しいので、宿がなければ断ります」とゴリ押ししたところ、クリニック所有のアパートを借りられることになった。当然である。友人宅から通ってもよかったのだが、生活リズムが違いすぎるので無理だと判断し、ひとり暮らしをすることにしたのだ。海外から派遣されたドクターが使うアパートだったらしく、立地は最高だったが、なぜかアパート内に小劇場のような舞台があるこれまた不思議な物件だった。舞台の上にベッドがあってそこで寝ていたし、部屋には調子の少し狂ったピアノまであった。家賃はドル建てでどれくらいだったのだろうか。残念ながら記憶にないが、書類が見つかれば加筆しようと思う。

窓からはスターリン建築が見え、ベルリンのこじんまりとしたアパートとは全く違う世界がそこには広がっていた。「モスクワは都会だな…」というのがひとり暮らしを始めた最初の感想だった。そこで毎日、半泣きになりながらロシア語や英語の医療用語を勉強したことを覚えている。そして、そんな中モスクワの友人たちは時間を構わずに呼び鈴を鳴らすので、堪忍袋の尾が切れてしまったこともある。

モスクワでの生活は結局2001年の2月から7月までと短い期間で終わってしまったが、ベルリンで間貸ししていたロストック出身の学生がベルリンに嫌気が差したらしく、彼女がアパートを出るタイミングにベルリンに戻ることになった。そう考えると、本当に絶妙なタイミングでベルリンに戻ることができたわけだ。

約半年間のどん底期間を経て、2002年の2月からベルリンでフルタイムの就職が決まったこともあり、2003年頃だったのだろうか。ようやく自分名義でアパートの賃貸契約を交わし、本格的にひとり暮らしを始めることになった。そんなわけで自分の中では、2002年からようやくベルリンの地に足がついた形になったことになる。そこから早20年余り。ベルリンという街も、その住宅事情も以前とは比較にならないほど様変わりしてしまった。正直なところ、当時の自由なベルリンが懐かしいが、さすがに時の流れは止められない。今後、ベルリンという街は一体どこへ向かっていくのだろうか。



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