STASI RAUS, ES IST AUS! / 「秘密警察最終日」カードゲーム

ドイツはカードゲーム大国だ。そんなドイツから一風風変わりなカードゲームが発売された。

その名もSTASI RAUS, ES IST AUS!

ここでいうSTASIとは東ドイツの秘密警察・諜報機関を総括する省庁、国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit、略号: MfS)の通称であるシュタージ(Staatssicherheit)を指す。

全盛期には対人口比でロシアのKGBやナチス政権下のゲシュタポを凌ぐ規模で活動していたそうで、何とも物騒なカードゲームだ。

ロシアにもKGBをテーマにしたカードゲームなどがあるのだろうか?

「最高機密」カード © 2019 PLAYING HISTORY

ドイツに長く住んでいるものの、この手のカードゲームやボードゲームの類にはまだ一切手をだしてもいないし、触手を伸ばす気配も全くみえない。

ただ、この「シュタージ」のカードゲームだけは何だかとても気になる。東ドイツ出身者にとってはひどいパロディー版にはならないのだろうか?親友だと信じて疑わなかった知人が、信頼していたお隣さんが実はシュタージだった、などトラウマにしかならない経験をした人々が実際に数多く存在するだろうから。

それらの事実も引っくるめてカードゲームに落とし込んでいるのだろうか?その内容が気になって仕方がないのである。

© 2019 PLAYING HISTORY

カードゲームをしながら歴史を学ぶ、というコンセプトの元にきちんと作られた印象を受ける。1989年11月に市民運動による圧力のもと、DDR政権は事実上崩壊した。壁崩壊より前に当たる11月6日に国家保管省のエーリッヒ・ミールケによって既に書類の破棄が命じられていたのである。

シュタージのために働く、というのがゲームのルールとなっている。シュタージの視点に立てるわけだ。市民がシュタージ本部に乗り込んでくる前にいかに多くの書類を破棄できるか、というのがゲームの内容だ。

2人から5人のプレイヤーで行うことができ、特に遊び方の説明を事前に読む必要もない。カードの指示に従ってゲームを進行することができる仕組みになっている。

市民グループカードはマイナス3点

このカードゲーム、2020年1月15日に発売になったばかり。一足先に遊んでみてはいかでしょうか?発売日から遡ること、30年。1990年1月15日に市民が国家保安省に押し入るまで100人にも上るシュタージ職員の手によって多くの秘密書類が闇に葬られている。市民らの介入によって、さらなる書類の破棄は食い止められたわけだ。

Playing Historyのミヒャエル・ガイトナー(Michael Geithner)とマーティン・ティーレ=シュベッツ(Martin Thiele-Schwez)によって、このカードゲームは作成されている。

本来は学校の授業で使われることを念頭に置いて作られたそうだが、もちろん家庭用として遊ぶこともできるので是非。

カードには英語でも指示表示がされているので、歴史好きの人にはいいお土産やプレゼントになるかもしれない。

参考サイト:Playing History: Stasi rasu, es ist aus!

Kino International / ベルリンのカルト映画館

旧東ベルリンのアレキサンダー広場から真っ直ぐにのびるカールマルクス大通りには、建築のアンサンブルが並んでいる。

そのアンサンブルに溶け込んで立っているのが、ベルリン映画祭の会場のひとつになっているKino Internationalである。

Kino International / LDA-Archiv

この映画館は独特の雰囲気があり、とても好きな空間だ。映画祭のチケット入手の際も、ポツダム広場のメイン会場の側にあるショッピングセンター内のチケットカウンターより空いており例年お世話になっている。

今年のベルリン映画祭は2月20日から3月1日と少し遅めの開催だが、もちろんKino Internationalでも上映が予定されている。まだここで映画を観たことがない人がいれば、是非一度足を運んでみてほしいと思う。

この映画館、一体何が特別なのか。

それは、DDR(旧東ドイツ)の戦後モダニズム建築の記念碑とも言える建築様式にある。1963年に開館され、東独時代1990年までプレミア上映館としての役割を担っている。Defaフィルムも数多く上映されてきた。

1990年以降はベルリン映画祭の会場として、毎年数多くの映画が上映されている。

Kino Internationalの隣にあるMokka-Milch-und-Eis-Barや向かえにあるCafé Moskauの建築群が一連のアンサンブルを成しているユニークな場所。映画館の真後ろにある建物も現在はミッテ区の市役所が入っているが、以前はBerolinaというホテルだったのだそうだ。

„Mokka-Milch-und-Eis-Bar“ 1964 / Bundesarchiv
Café Moskau / Bundesarchiv

カフェ・モスクワも一時はクラブスペースだったが、現在は何に使われているのだろう。調べてみると、会議やイベントスペースとして生まれ変わっていた。正直、これでは何の面白みもない。写真左にわずかに見えているスプートニックが台無しである。とはいえ、時代の流れは変えられない。

© Cafe Moskau GmbH 2020

今現在のモスクワもこれに似たり寄ったりで、ピカピカキラキラしたモダンで味気のない街並みになっているのかもしれない。

さて、これらの建造物はヨゼフ・カイザー(Josef Kaiser)とハインツ・アウスト(Heinz Aust)によって1959年から1965年にかけてカールマルクス大通りの第二アンサンブルとして設計されたものである。

当時、映画館の最上階では青少年クラブ・インターナショナルなるものが開かれていた。ここで東ベルリン出身のバンド、Feeling B、今では有名なRammsteinの前身バンドもコンサートを行っている。

60年代の雰囲気を醸し出す内装も魅力的なので、気になる方は是非ここで映画鑑賞されることをお勧めしたい。

© YORCK-KINO GMBH

参照サイト:
Kino International
CAFE MOSKAU
ウィキペディア
Berliner Woche: Kino International bekommt zum dritten Mal Fördergelder für die Sanierung

Lebensraum und Stabilität / 住処と安定

とにかく昔から落ち着きがない子供だった。

本の虫だった割には自転車で近所の道を爆走するのが大好き。ブレーキをかけずにカーブを曲がったら、ちり紙交換の軽トラックに激突。気付いたら溝に転がり落ちて膝を擦りむいていた。9歳の頃だろうか。

恐ろしいのは、そのまま自転車に乗って友達の家に遊びに行ってしまったことだ。後で母親から「ちり紙交換の人から電話があったけど、どこ行ってたの?」とあきれ顔で聞かれたのを覚えている。

高いところから飛び降りるのも好きで、失敗して派手に流血したり、これまた急な坂道を自転車で一気に下り、田んぼに自転車ごと突っ込みそうになったりもした。

そうかと思えば、小学校6年生までは真面目なガリ勉タイプで通知表はオール5。「協調生がある」という項目だけがいつも3だったような群れない一匹狼タイプ。同級生とは折り合いがあわず楽しい小学校生活だった、とはお世辞にも言えない。

自分の子供はここまでひどくないので良かった、というべきだろう。

大人になった今でも、落ち着きのなさは当時のままである。

清水の舞台から飛び降りる(モスクワで就職!?)のは朝飯前だし、自分で言うのもなんだが、いつまで経っても落ち着く気配がない。

そういえば、一度付き合った相手から「子供ができると落ち着くんじゃない?」と言われたことがある。子供がいても落ち着いているようには微塵も見えなかったロシア人にこんなことを言われても。とにかく全く説得力がなかったのは記憶している。

その当時はベルリンとモスクワを行ったり来たりしていたのであるが、「家」とか「居場所」、「住処」というのが自分の中では常に最重要テーマだった。

とにかく落ち着けないのは居心地の良い住処がないからだ、と。

だから当時のことを振り返るブログのタイトルも「the borderline / 境界線」にした。ドイツなのかロシアなのか。ベルリンなのかモスクワなのか。自分の中で確固たる芯のようなものが欠けており、文字通りフラフラと行き場なくさまよっていた辛い時期についての回顧録のようなもの。

ロシア語で会話ができるようになろう、ロシア語で仕事ができるようになろう、ロシア人を理解できるようになろう、ものすごい熱量で努力をしていたのだろう、ある日突然、バーンアウトした

ロシア語やロシア人に振り回されることに、モスクワの理不尽さや生活にただただ疲れたのである。

そう、「海外生活と外国語疲労」でドイツ語に疲れる、という話をしたが、それ以前にとっくにロシア語には疲れてしまっていたわけだ。

ベルリンに戻った後の約半年間はそれこそ精神的にかなり参ってしまった。

銀行口座の残高は下がりっぱなしだし、台所のシンクの下に備え付けられたバスタブにもウンザリしていた。ポンプでお湯を汲み出すとか何!?

2000年初期の東ベルリン側にはまだよくわからない類のアパートがたくさんあったのだ。

そのうち、縁あって制作会社に就職し、初めてまともなアパートで一人暮らしをすることになった。バルコニーからテレビ塔も見える最高のロケーション。

のはずだったが、アパートには備え付けの家具もなく、また必要性も感じていなかったので机と本棚くらいしか揃えなかった。寝室にはそれこそマットと服をかけるハンガー、本の入ったままの段ボールがいくつか転がっている状態。

これがベルリン生活から7年経った状態だと言えるのだろうか。否。

最初から定住する気がない人のアパートにしか見えない。生活感ゼロ。

まぁ、でもその状態がある意味、自分には一番落ち着くのかもしれない。

長くなりそうなので、今日はこの辺で。

Leben im Ausland und Fremdsprachen / 海外生活と外国語疲労

「最近、ドイツ語に疲れるんだよねー。」

妙なことに周りの気の置けない友人から同じようなコメントを聞くことが何度か続いた。

意外なことに両者とも海外生活が数年とかではなく、ベルリン在住歴が15年以上でドイツ語も堪能、育児と仕事を両立している強者たちなのである。

え、またどうして?と思われるかもしれないが、かくいう私も似たようなことを感じることが何度かあったのだ。

例えば、これまでに諸処の申請手続きは全て多かれ少なかれ自力で行ってきた。

・大学入学手続き
・滞在許可
・住民登録
・失業保険
・育休手当
・子供手当
・幼稚園探し、入園手続き
・小学校の入学手続き など

書類の記入や電話での問い合わせ、書類を持参しての申請などについては手間は掛かるが出来ないことではないので普通にやってきたし、特にだからどうだという話ではない。

それよりも、例えば自分が全く経験のないドイツ(ベルリン)の小学校での懇談会や二者・三者懇談、小学校の次のギムナジウムへの進学に関する情報集めなどをしていると、経験や知識がないだけに余分なストレスを感じてしまうことはあった。

それでも、それらはリサーチをしたり、知人友人との会話の中からヒントを得られることではあるので、これもさほど大変なことではない。

じゃあ、外国語に疲れる原因とは果たしてなんなのか。

それは例えば、ドイツ人のジョークで笑えないことであったり、自分がいくら努力しようがネイティブ並みのドイツ語力を得ることは不可能である、という紛れもない事実だったりする。同じ土俵で戦うには初めから分が悪い勝ち目のない試合に挑むようなもの。

語学力というよりも、ドイツで生まれ育っていない自分には色々なことが欠落している、と言えばもっと伝わるだろうか。

逆に考えれば、それはクリスマスよりも正月の方が本当は大切なこととか、神社の境内に漂う独特の空気を懐かしく思う感覚のようなものではないだろうか。

外国語というのはいくらうまくなったところで母国語のように自由に扱える日などやってはこない。そして外国語で考えるということは、常に思考と言語化の間に薄いフィルターのようなものが掛かっている状態だ。

端的に言えば、どう頑張っても自分の言いたいことを100%伝えることができない、ということになるだろうか。

長く住めば住むほど、変な話ではあるが、その変えようもない事実が心底面倒臭くなったりするのである。

もちろん、周囲を見渡せば、そんなことは微塵も感じさせないドイツ語堪能な在独邦人勢は多く存在する。

海外生活、といっても十人十色で一概には言えないのだが、ある程度の語学力が付いてきたら、それはそれで大変かもね、というお話でした。

Schalom Rollberg / 異文化交流プロジェクト

“Schalom Rollberg” (シャローム・ロルベルク)とはベルリンのノイケルン地区で行われている異文化交流プロジェクトである。

ノイケルン地区のロルベルク。ここはいわゆる問題の多い地区であるらしい。 無職や外国人の割合が多く、特にユダヤ人にとっては「行ってはいけないエリア」で名高いのだそうだ。

1933年以前はKarl-Marx-Straße(カールマルクス通り)とHermannstraße(ハーマン通り)で挟まれたエリアは共産主義の労働者地区だった。60年代には多くの古い見すぼらしい住居ブロックが公営住宅として利用された。

今日では30以上の国籍からなる6000人ほどの住民が住んでいる。そして、ほぼ2人にひとりがハルツVIと呼ばれる失業給付やその他の補助金を受けているのだそうだ。

近年、ヒップなエリアに生まれ変わったノイケルンのイメージからは程遠いのがこのロルベルクエリアというわけだ。

実際にこのエリアで生活しているわけではないので、上記のような記述が肌で感じられるのかどうかは疑わしいところだが、ロルベルクの評判はそれほどいいわけではないのだろう。

さて、そんなユダヤ人にとってはNo-Goエリアともいえる場所でイスラエル出身のヨナタン・ヴァイツマン(Yonatan Weizmann) は”Schalom Rollberg”というプロジェクトを運営している。

©Schalom Rollberg

Schalom(シャローム)とはヘブライ語で「平和」を表す言葉で、日本語の「こんにちは」にも当たる。

ヨナタン・ヴァイツマンは10年前にイスラエルからベルリンに移住してきた。宗教色の強い両親のもとで育ったが、宗教そのものは彼にとってそれほど重要な位置を占めていないという。ベルリンに来て、突然自分がマイノリティーに属していることに気付き、自分がユダヤ人であることをこれまでよりも意識するようになった。

ヨナタン・ヴァイツマン ©Schalom Rollberg

偏見や無知、接触に対する不安などが存在する中、”Schalom Rollberg”はとても重要な活動だ、とヨナタンは考えている。

このプロジェクトはMorus 14という協会組織の枠内で行われているものだが、ほとんどの家族がムスリムの背景を持つロルベルクエリアで2013年から年間約200人の子供や青少年と関わりを持っている。

20名ほどのユダヤ人が運営に携わっているが、多くはイスラエル出身、その他はベルリンのユダヤ人コミュニティーに属している。ヨナタンはユダヤ人コミュニティーの協力を望んでいるが、そこにもロルベルクエリアでの活動に不安を覚える人々が多く存在するのだそうだ。

©Schalom Rollberg

“Schalom Rollberg”の主な活動は3つある。

・Morus通りの小学校4年生向けに「人道的な世界観」の授業を行う
・子供や青少年向けの補習授業
・ユダヤ人ボランティアによるヨガやアート、英語などのコース

プロジェクトに反感を覚える家庭もあるのだろうが、コース参加希望者が多くウェイティングリストがあるほどなのだとか。

ネットや家庭で仕込まれたのだろう、「ユダヤ人は世界征服を狙っている」「ユダヤ人が僕たちのの国を盗んだ」などというフレーズが子供たちから飛び出すこともあるのだそうだ。ヨナタンは「このテーマについて話すきっかけになるので、どちらかといえば歓迎すべきことです。」と悠然と答えた。

彼はその際にユダヤ教やイスラエル国家を代表するのではなく、あくまでもお互いに知り合うこと、出会いそのものが重要だと考えている。

子供たちの多くは、彼がイスラエル出身のユダヤ人であることはすぐに忘れ、「ヨナタン」として認識するようになるからだ。

この”Schalom Rollberg”の活動はベルリンだけではなく、ドイツ全国でも3位に入賞し、7000ユーロの補助金を得ている。

参考記事:
Berliner Zeitung: „Shalom Rollberg“ – Eine Insel der Toleranz mitten in Neukölln
Berliner Woche: Nur Kennenlernen hilft gegen Vorurteile

Schalom Rollberg

Fussball-Tournament und DriveNow / 遠征試合とカーシェアリング

今日は久しぶりにDriveNowを利用する必要に迫られた。いつもなら土曜日のサッカーの試合が例外的に日曜日のトーナメント試合に化けたためだ。

相方はすでに入院中の母親のお見舞いに行くことになっており、車が出せなかった。ハンブルクから義姉も合流するので尚さらである。

そして、運悪くトーナメント試合がこれまたベルリン郊外のKarowという場所だった。それどこ?と思われた方も多いと思うのでグーグルマップを貼っておこう。

ミッテからだと車で約30分、Sバーンの最寄駅はBerlin-Buchである。市内から45分くらいはかかる。

息子の週末のサッカー遠征はこんな風に、ホーム試合以外はこれまでに足を運んだことのないような遠いところまで出かける必要に迫られるのだ。

通常は相方が車で市内のあちこちで行われる試合に連れて行くのが常なのだが、今回は私がやむなくその役を引き受けることになったわけだ。

「ママと車で行きたい!」

やはりそうくるか。久しぶりだし、練習も兼ねて乗って行くことにした。

「Karow?ちょっと遠いよなぁ。。果たしてここはエリア内なのかな?」

ちらっとそんな考えもよぎったが、とにかく目的地を目指すことにした。

日曜日のお昼過ぎ。チャイルドシートが付いている車がなかなか家の周囲で見つからない。週末は子連れで出かける家族が多いということなのだろうが、カーシェアリングはそもそも子連れに優しいサービスではないのである。

運良く出かける15分前に徒歩5分の距離に適した車が見つかった。慌ててそこまで移動して車を見つけるが、なんと大通りの工事現場枠内にしれっと停められていた。

「ママ!あんなとこに停めたらあかんやんな。」

そう思うぞ。しかし、そのお陰で間に合いそうなので良しとしておこう。

グーグルマップを頼りにどんどん北上する。それに伴って、景色はどんどん旧東エリアを実感させるものに変わっていく。ベルリンのPankowを出た辺りから、これはややこしいことになりそうだ、と実感。

トーナメント試合の会場には時間通りに着いたのだが、団地内のスポーツ施設だったため、駐車場も整備されておらず現場は出たり入ったりする車で大混雑。そこでまず心が折れるが、親切な男性に助けられて何とか車を所定の場所に収める。

そこで、レンタル終了ボタンを押すが以下の表示が。

X パーキングエリア外にいるため、レンタルを終了することができません。

「あーあ。やはりそうくるか。ここまで苦労して停めたのに、出るのも一苦労じゃないか。。終わった。」

というのが正直な感想だ。仕方がないので、カスタマーサービスに連絡を入れて、パッケージ契約に変更できないかどうか聞いてみることにした。

息子は無事にチームに合流し、すっかり試合モードになっていたのと3時間くらいの予定だったため、車のことを解決するのに十分な時間があったわけだ。

カスタマーサービスの女性曰く、「3時間のレンタルでは間に合わないと思うので、6時間になってしまいますね。その場合は55ユーロですが、エリア内に移動してそこでレンタルを終えればそれよりは安く済みますね。申し訳ありません。SバーンPankow-Heinersdorfまで移動し、そこから数駅戻ってもらえますか。どうされます?」

Pankow-Heinersdorf、それどこ?という具合だが、20分ほど南下したエリアのようなので、仕方なく戻ることにした。これも経験。実地練習。グーグル先生は容赦ないので、途中で一部高速に乗らされたり、住宅街の狭いクネクネした道を走らされたりと神経がすり減ってしまう。そこで、ようやくSバーンの駅併設のPark+Rideエリアに停めレンタル終了ボタンを押したところ、再度この表示が。

X パーキングエリア外にいるため、レンタルを終了することができません。

どうやら、Sバーン沿いの反対側からパークエリア圏内らしい。ここでさらにダメージを受け、HPが限りなくゼロになった状態で何とか反対側の道路沿いに停車し、何とかレンタルを終えることができた。

DriveNowは市内をちょっと走るのには快適なサービスだが、間違ってもエリア外に出てはいけない、ということを徹底的に叩き込まれた。

恐ろしいことに、まだ続きがあって試合会場に戻るSバーン。S8は途中で曲がって西側のCエリアへ。S2は数駅で試合会場最寄駅のBerlin-Buchへ行くのだが、もちろんHP0の私は見事にS8に乗ってベルリンの最果てにたどり着いたのである。

Mühleから始まり、mühleで終わるこの駅。反対側のホームから帰ろうとしたが、ホームが見当たらない。列車を待つ人ふたりに確認したが、どうやら単線で戻ってくる列車に乗るように言われた。単線のSバーンが存在するとは知らなかった。

なぜか徒歩検索

そんなわけでもう会場に戻れないんじゃなかろうか、と3度目に心が折れるが這々の体で試合会場に戻れた時は軽く感動すら覚えたわけである。息子の出場した試合も何とかひとつは見ることができた上、爽快なシュートを放っていたので全て丸く収まった、ということにしておきたい。

Obdachlose in Berlin / ベルリンのホームレス事情⑵

2017年に一度「ベルリンのホームレス事情」について取り上げたことがある。今回の投稿ではベルリンで今月末に行われるある調査について触れてみよう。

ベルリンのホームレスの数は6000人から1万人の間だと推測されている。しかし、この数字はあくまでも推測の域を出ておらず、これまでに男女比や具体的な統計は取られていなかった。

パリやニューヨーク、ブリュッセルなど他の大都市ではすでにホームレスに関する統計が取られており、具体的な対策に生かされているようだ。

例を挙げると、パリでは2017年に行われた「Nuit de la Solidarite」(「連帯の夜」)というアクション後に女性のホームレスに対する緊急避難場所の数が増設されている。このアクションにより、ホームレスの女性の割合が2%ではなく、12%であることが明らかになったためだ。

ベルリンでもパリ同様、救助システムのオプティマイズを図りたい。パリの調査に同行したスザンネ・ゲレル教授(Susanne Gerull)はそう考えている。彼女はベルリンのアリス・サロモン専門大学(ASH Berlin)で「社会活動における理論および実践」を専門としている教授である。

Nacht der Solidarität

「Nacht der Solidarität」(「連帯の夜」)は1月29日から30日の夜22時から1時まで行われ、3727人のボランティアが道や広場、公園などにいるホームレスに声を掛け、出身国・年齢・男女比などを調べることになっている。

このアクションによる結果以前に、スザンネ・ゲレルはベルリン市に支払い可能な住居の確保と、既存する住居を経済的、社会的弱者にとってアクセス可能にすることを提案している。

「住居を持つことは基本的人権だ。」と貧困の専門家はいう。

住居問題の解決策としては、Housing First Berlinというモデルプロジェクトがすでに2018年10月にスタートしている。基本的なアイデアは90年代にアメリカで始められたホームレスのための住居斡旋事業である。

このモデルプロジェクトはベルリンの教会系福祉団体であるStadtmissionおよび青少年やホームレスへのサポート団体であるNeue Chance gGmbHによって運営されている。

Housing Firstの主な活動は年間に少なくとも40人のホームレスに賃貸契約付きのアパートを手配する、というものだ。住居の確保と同時に専門チームによる個々のニーズに合わせたサポートも受けられるようになっている。

家の近所の公園や最寄りの地下鉄で寝泊まりするホームレスの人々。彼らが今後、どうなるのか1月末以降の動向が気になるところだ。

参考サイト:www.berlin.de/nacht-der-solidaritaet
Berliner Woche: Nacht der Solidarität: Berlin will seine Hilfsangebote für wohnungslose Menschen verbessern

Vorsätze fürs Neue Jahr / 2020年の目標

昨年末はバタバタしすぎて、恒例の振り返りブログを書いていなかった。振り返りブログや目標設定のブログは現在の状況の反省にもなるので、「2018年を振り返って」や「苦手克服」などの投稿はたまに読み返したりもしている。

年末はブダペストに数日滞在していたので、「東欧に足を運ぶ」という目標は達成したことになるだろうか。ハンガリーは中欧だ、という意見もあるだろうが細かいことにはこの際目をつぶろう。

さて、今年はどんな年にしたいのか。以下、思いつく点を列挙してみた。

  1. もっと東欧に足を運ぶ
  2. 整理整頓
  3. 語学強化
  4. プログラミングの基礎習得
  5. マイプロジェクトの着手
  6. 営業

ざっと思いつくのはこれくらいだろうか。控えめに言って。

それでは上記を具体的にみていこう。

1. もっと東欧に足を運ぶ

これはまさに文字通りで、今年はもう少し東欧に行く機会を増やしたいと思っている。年末のブダペストはとてもいい旅だったが、次は冬休みに長女とブルガリアのソフィアに行けないかと思っているところだ。

できれば、モスクワも再訪してみたいところではある。今、一部で話題のグルジアのトヴィリシでもいい。

2. 整理整頓

例年は優先順位でいうと、限りなく下に設定されている整理整頓。どちらかと言えば、苦手項目に当たるのだが、今年は敢えて上位に設定してみた。

・必要のない衣類や物を捨てる(「こんまり」には興味が全くないので、あくまで自分ベース)
・書籍や書類など紙類の整理
・机周りの整理
・子供服の整理
・子供のいらなくなった玩具の整理 など

箇条書きにするだけで途方に暮れるが、まずは今月、衣類の整理から始めてみようと思う。

3. 語学強化

これも今更ながらのテーマだが、「もっと東欧に足を運ぶ」にも連動しており、まずはロシア語の強化を本格的にやりたい考えだ。英語、ドイツ語はもはや議論の余地なし。余力があればフランス語の基礎を。

ガチガチに考えると疲れてしまうので、Duolingoを少なくとも毎日5分はする、好きな映画を観てヒアリングを強化する、など楽しみながら取り組んでみたい。

4. プログラミングの基礎習得

こちらも大袈裟なことではなく、まずはHTMLやCSSなど当サイトを触れるくらいのコーディングの基礎をその都度使えるようにしたい。後は友人の勧めてくれたJavaScriptを触ること。

5. マイプロジェクトの着手

こちらについては目標1に設定してもいい項目。今年は本格的に「書く」ということに取り組むつもりだ。テーマは「90年代のベルリン」。

6. 営業

つまらない響きかもしれないが、端的に言うと、仕事を徐々に増やしていければ、というのが理想。撮影コーディネーターの仕事はもちろんだが、そこに通訳やライティング、その他へと取り組むジャンルも広げていければいいな、と考えている。今年の一時帰国は営業もしなくては!というところだろうか。

少なめに見積もっても6項目になってしまったが、皆さま2020年も何卒よろしくお願い致します。

Weihnachtsbasar an der Schule / 小学校のクリスマスバザー

早いもので、今年もすでに12月。この時期は学校の行事も増え、何かと慌ただしい。

バタバタと忙しくても必ず足を運ぶのが、長女の小学校のクリスマスバザーだ。その充実ぶりには毎年感心させられる。

今年は日本語補習校の日と重なったが、クリスマスバザーに連れて行くことにした。長女にとってもクラスメートと遅くまで学校で遊べるので特別感がある。

そんな日に日本語の補習校へ連れて行ってもこれまた逆効果。日本語の補習校のせいで楽しいことができない!と刷り込んでしまっては大変だ。

長男は別の小学校に通っているので、迎えに行って休憩してから向かったが、家でのんびりしすぎて出遅れてしまった。長女から「ママどこ?もう来てる?」と催促の電話を受け慌てて出発。

17時過ぎに学校に着いた時はすでに真っ暗。

中庭ではキャンプファイヤーを囲んでStockbrot(文字通り棒にパン生地を巻いてあるもの)を焼いている子供たちの姿が目に止まった。

その他、ケーキやクッキー、コーヒーなどのスタンドに焼きソーセージの屋台も出ている。

クッキーで腹ごしらえをしてから、メインのクリスマスの手作りコーナーへ急ぐ。

毎年、少しずつ内容が変わっているが、子供も大人も作って楽しいアイデアに溢れた手作りコーナーが大好き。2年生の息子はまだ喜んで参加するが、5年生の娘は友達と遊ぶことに夢中でこちら側には参加しなかった。

そんな娘のためにお菓子のキャンドルをせっせと作る。手作りコーナーは1ユーロ〜2ユーロの料金設定で、すべて学校への寄付に回される仕組みだ。

こちらのお店では生徒や先生が作ったグッズが販売されている。クォリティーの高さに毎年驚かされる。ルーマニア人の保育士の先生は日本好きな方で、日本で刺し子セットを購入し、手作りのしおりを販売されていた。娘と私でふたつお買い上げ。

放課後に生徒たちが過ごす部屋

長女の小学校はモンテッソーリの教育方針を取り入れているのだが、とにかくホート(日本でいう「学童」に近い)の充実度が半端ない。手作りのための材料がきちんと準備されており、保育士の先生方のアイデアも豊富。

二つ目は天使のツリー飾りを作ってみることにした。針と糸を使ったり、紙をジャバラに折ったりと少しハードルが高い。小さな子供がそれでも一生懸命、親や先生に助けられながら作っているのが微笑ましい。

「難しいな、ママ。」

そんなわけで更新が大幅に遅れてしまったが、今年のクリスマスバザーもとても充実した内容で大満足。いつものように2つくらい手作りの工作をやってから、腹ごしらえに締めのパンに挟まれたソーセージ、Bratwurstを食べて帰宅した。