Ferien mit Kindern / 長期休暇と子供たち

さて、日本でも夏休みが始まった頃だ。

今年のベルリンの休暇は「もうすぐ夏休み」でも書いたとおり、なぜか6月中旬から始まっている。残すところ、わずか2週間である。

わずか、というかまだ2週間もある。

ドイツはこんな風に毎年、それぞれの州ごとに休暇のタイミングを意図的にずらしているのだ。休暇大国ドイツの知恵とも言えるだろうか。

それでも今年は格安のフライトで急遽日本に行って来たので1ヶ月はメインイベントができたわけだ。イベントマネージャーとしては非常に助かる展開である。

残りの2週間については最初の1週間で残っている補習校の宿題ややり残しのドイツ語のワークなどを一緒にしたり、部屋の片付けをしたりしようと考えている。

息子の小学校のホート(学童)はつまらないという噂だし、子供たちもほとんどいないらしい。そんなわけで休暇ホートは利用しない考えだ。

娘の小学校はホートが充実しているが、高学年になってくると喜んで行ってはくれなくなってくる。

最終週に相方が休みを取ったそうなので、ブランデンブルク州に日帰り旅行するなり、湖に行くなりできるといいかな。日本で海と山に行けなかったので、ザクセンドイツ辺りで山登りをしてもいいかもしれない。

休暇の終わり頃に申し込んでいたサッカーキャンプはキャンセルすることにした。イベントが多すぎるのもどうかと思ったからだ。

とまあ、こんな風に6週間にわたる長期休暇が来ると、小さな子供たちのためのイベントを考えるのも親の仕事だ。

ドイツ人というか、欧州の人々はバケーションのために働いているといっていいほど、休暇に入った途端、旅行にいってしまうので街から人の気配がなくなる。

仮に長期的な旅行に出かけなくても、ベルリンのような都市に住んでいれば様々なイベントやワークショップも行われているので積極的に利用するのも手だ。

  • 休暇ホート
  • 各種ワークショップ(美術館、博物館など)
  • 休暇パス(Ferienpass)の利用:スーパーなどで9ユーロで入手可能。公共プールが無料になったり、施設の優待チケットなどが付いているので便利。「年間100日間の休暇分9ユーロ」が謳い文句。
  • 郊外や近場(ポーランドやチェコ)に遊びに行く

例年はこんな風にして長い休暇を乗り切っているわけだ。ここ最近は少し暑すぎるが、これまでは夏は非常に過ごしやすい気候だったのでわざわざ出かける必要を感じなかったというのもある。

ふと思ったのだが、自分の子供の頃を振り返ってみても特に特別なことはしていなかったんだよなぁ。京都にハイキングに行ったり、たまに海に連れて行ってもらったくらいで旅行らしい旅行はしていなかった。海外なんて以ての外だ。

そういう意味では小さな頃から自然と異文化に触れられる環境の子供たちを羨ましく思わないでもない。

皆さんはこの夏休み、どんな風に過ごされていますか?

ドイツの誕生日会は大変だ! / Kindergeburtstagsfeier

ドイツの子供たちにとって、クリスマスに続く一大イベントといえば誕生日会だろう。

日本とは違い、ドイツではかなり盛大にパーティーを開くのが一般的だ。
ケーキと食べ物を用意して子供たちを自宅に招く、といったおもてなし系ではなく、どちらかといえばエンタメ系のイベントといえばいいだろうか。

我が家の子供たちがこれまでに招待された、誕生日会のバリエーションを以下に一部挙げてみた@ほぼBelrin市内

トップロープクライミング

スポーツ系や博物館系が人気のようだ。招待する側も大変だが、多い時には毎週末誕生日会に呼ばれる月があったりもして、プレゼント代も正直バカにならない。

ベルリン市による「子供の誕生日」というカテゴリーのサイトがあるくらいなので、興味のある方はご参考までに。誕生日会のロケーションやプログラムの提案、食事、プレゼントについてなど、かなり詳しい情報が網羅されている。

ベルリンの住宅事情で日本と大きくちがうのは、なんといってもその広さ。だたっ広い家に住んでいる人たちも多く、子供たちを大勢呼んでホームパーティーをする家庭もある。

その場合でも、Topfschlagen「なべ叩き」やら、Eierlauf「卵リレー」といった直訳するとよくわからないゲームを用意しておかなければならない。Schatzsuche「宝探し」くらいなら、まあなんとなくは分かる。

公園でTopfschlagen

とにかく初めて聞く単語だらけである。いや、ほんと育児用ドイツ語、耳にしたことがない分、最初は何かとハードルが高い。ドイツで幼少期を過ごしたわけではないので、当然ながらドイツで育った人であれば誰でも知っている子供の遊びを知らないのである。

これ実は、同じようなことをクリスマスソングを幼稚園や小学校のイベントで歌う際にも感じた。うわー、知らない!聞いたことない!と。

自分で検索してまじめに練習するという手もあるが、そのうち嫌でも覚えるのでご心配なく。クリスマス間近になると、子供が延々と歌うはずなので、なんとなく頭に入ってくるはずだ。

とまあ、話が逸れましたが、郷に入れば郷に従えでやっていると、イベントのオーガナイズも年々慣れてくるというわけ。

面倒なのはちっとも変わりませんけどね。

*タイトル写真はDeutsches Spionage MuseumのHPから借用しています。

Holzmarkt / ベルリン最後のユートピア?

もう、かれこれ2年くらい前だろうか。Holzmarkt通り沿いのRadial Systemで知人のダンス公演があったので、JannowitzbrückeからOstbahnhofに向かって歩いていた。

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すると道沿いに木の掘っ建て小屋やベンチなどが雑多に置かれたスペースがあって、「まだこんな場所があるんだ。」などと思いながらぐるっと一周して、また改めて見に来ようと思いながら、そのまま長い間そんなことすら忘れていた。

そして、昨年の秋。仕事で高城剛さんの取材に同行した際に、「ホルツマルクトってご存知ですか?面白いから行ったほうがいいですよ。」という話しになり、その時はまさか高城さんの言う「面白い場所」、というのが2年前に足を踏み入れたやたらと木でできた手作り感満載だったあの場所のことだとは思いもしなかったのである。

それからまた時間が経ち、昨年の冬にようやく再訪したホルツマルクト(Holzmarkt)。まだ午後の早い時間だったせいもあり、人もまばらで店も開いておらず、唯一開いていたカフェで暖をとることにした。

・・・のだが、ここでも残念ながらまたいつもの違和感を肌で感じたのである。この違和感のせいで、実はブログに書くのも嫌になってしまっていた。

どうしてか。店内には英語のみが飛び交い、カウンター越しの男性の対応もどこかつっけんどんで話にならなかったのである。

本当に残念なことに、この「鼻持ちならない感じ」はベルリンに来たばかりの当初、90年代半ばには微塵もなかった空気なのだ。

元来、資本主義に対抗するはずのヒッピー文化がここにきてビオブームやエコビジネスなどの流れで商業化した結果、とでも言えばいいのだろうか。ヒップスター?つまらない。

残念ながら、正直全く好きになれなかった。そして、またホルツマルクトからは足が遠のいていた。表面的には昔のベルリンを彷彿とさせる手作り感はあるので、撮った写真を何枚かここに載せておこう。

前置きばかりが長くなってしまったが、タイトルにあるようにどうやらホルツマルクトの存続が危うくなっているのだとか。

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©EckwerkのHPより

その主な原因は2014年からホルツマルクト共同組合(Holzmarkt Genossenschaft)の掲げるリビングスペース及びワーキングスペースを融合したフューチャーハウスとも呼べるEckwerkのコンセプトが頓挫したことによる。

2017年5月1日にホルツマルクト村は華々しくオープンしたのだが、Eckwerkはその時既に困難に陥っていたようなのだ。

  • ホルツマルクト協同組合(Holzmarkt Genossenschaft / Eckwerk Entwicklungs GmbH)
  • スイス年金基金(Stiftung Abendrot)
  • Gewobag
  • クロイツベルク・フリードリヒスハイン地区市議(Bezirksstadtrat für Bauen)

とにかく、何が問題になっているのかというと、Eckwerkの共同プロジェクト構想(Gewobagが噛んでいる)へのゴーが意見対立や法律的な問題でなかなか出ないことに尽きる。それに業を煮やした年金基金がEckwerk建築予定地の借地契約を解消しようとしていること、ホルツマルクト組合が長引く裁判のため経済的に圧迫され、自己破産寸前だということなどらしい。

ベルリン市の打ち出したメディアシュプレー構想に真っ向から対決し、75年の借用権利を勝ち取ったわけだが、ここ数年のベルリンの土地の異常な値上がりやそのロケーションから資金難に陥り、海外からも注目されたユートピア構想が頓挫するという、まさに今現在のベルリンの現実を目の当たりにさせられる。

とはいえ、Eckwerkにスタートアップ企業を誘致し、アーティストとのコラボから云々という文脈からはもはやジェントリフィケーションの匂いしかしない。

しかし、1年も経たないうちにここまで注目されたプロジェクトがあっさりと頓挫してしまうベルリン。それも何だか悲しい現実でしかない。一等地にユートピアを生み出す構想はこのまま終わってしまうのだろうか。その行く末に注目したい。

参照記事:
https://www2.holzmarkt.com/
https://www.rbb24.de/panorama/beitrag/2018/05/holzmarkt-berlin-finanzen-schwierigkeiten-eckwerk.html
https://www.morgenpost.de/berlin/article212700287/Holzmarkt-in-Friedrichshain-Aerger-ums-Modellprojekt.html

余談になるが、夏日が続くベルリン。偏見を捨てて、夏のホルツマルクトも体験しておいた方が良さそうだ。

Gelerie berlintokyo / 90年代のベルリン⑦

去年だっただろうか、娘をピアノ教室に迎えに行った際、同じく子供を迎えに来たのであろう見知らぬ父親に声を掛けられた。「あれ?どこかで会ったことない?」

記憶を掘り起こすのに数秒かかったが、その人物こそ、当時まだ開発が進んでいなかったHackescher Höfeから目と鼻の先に”Galerie berlintokyo”を立ち上げたラファエル・ホルゾン(Rafael Horzon)だった。1996年のことだ。

ベルリンのミッテ地区がまだ開発の波に飲まれる前のRosenthaler Straße。以前は「小さな地下の体育館」だった場所に、アートギャラリーでもなく、日本とは直接何の繋がりもない”Galerie berlintokyo”をイニシエーター、経営者としてスタートさせた人物である。

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ギャラリーでの初展示では実在しない日本人アーティスト、Masahiro Sugimotoの作品として自分の使っていたトースターを展示販売したんだそうだ。CaptainHoney Suckle Companyもこのスペースでパフォーマンスや展示をしていた。

ラファエルの企てはキャッチーなネーミングと90年代のベルリンの持つツァイトガイストに見事にハマり、Vogueが„Der modernste Keller Europas“「欧州で一番モダンな地下室」と紹介し、カッセルで5年に一度開かれる大型現代美術展Documenta X からも声まで掛かる羽目に。

「このギャラリーが単なる『ギャラリー』のひとつになってしまうなんて、何か違う方向に進んでいるとショックを受けたのです。」とラファエルは自伝“Das weiße Buch”の中で述べているそうだが、彼はこの件をきっかけにGalerie berlintokyoからさっさと手を引いたのである。

当時から引き際が潔いというか、時代の波に乗るのが上手い人だというイメージがあった。かなり前からTor Str.にMobel Horzonという不思議なスペースがあるのだが、どうやらこれも彼の多くの企てのひとつのようだ。

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LOGO / MOEBEL HORZON

まさかあのガラーンとしたスペースに白い本棚が立っているだけの場所が、ラファエルと関係があったとは。。前を通るたびに感じていた違和感の正体はこれだったのか。相変わらず恐るべしコンセプトの持ち主である。

東ドイツのテイストを彷彿とさせる微妙なデザインと配色のロゴに店構え。もはや展示ルームですらない不思議な空間に、やけに洗礼された真っ白な本棚だけが無造作に置いてある。スタッフの姿を見ることもほとんどないが、なぜか主張が強い。

どこまでが冗談でどこまでがビジネスなのか本当につかみどころがないのだが、この人、会社をいくつも設立している。今でもやはり、ミッテの変化に軽やかに便乗しているというわけだ。

言葉のセンスもピカイチだし、ピアノ教室で再会したのも何かの縁なのでそのうち時間を作って頂いて色々とじっくり聞いてみたいものだ。

参考サイトその他:
タイトル写真はgalerie berlintokyo spielkreis 02 ’98から引用しています。

Berlin 1997 / 90年代のベルリン⑥

当時はまだワーキングホリデー制度もなかったので、語学ビザで入国したものの、大学入学までの期間として1年半の猶予しかなかった。当初は1年で帰る予定だったのでそんなことも露知らず、語学学校でたまたま一緒になった日本人の知人から、語学学校ビザは期限付きだと聞いて慌ててドイツ語の勉強を本格的に始めたような気がする。
相変わらず、はっきりとしたビジョンもなかったわけだ。
ロシア人ネットワークの中にいたドイツ人ジャーナリストの知人が、私について記事を書いたことがきっかけで、ある日突然、面識のない人から電話が掛かってきた。
「記事を読んで興味を持ったんだ。Büro Friedrichというプロジェクトを立ち上げるんだけど、うちで働いてみない?」
ドイツ語の大学入学資格試験に何とかギリギリ受かり、ロシア語学科に通いだした頃だったろうか。これまた記憶があやふやではあるが、とにかくドイツ語の読み書きもままならない状態態だったのは間違いない。ただ、面白そうな誘いを断る理由もないので、とにかくそのBüro Friedrichとやらに行ってみることにした。

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当時のフリードリヒ駅

コンテンポラリー・アートの展示を企画する非営利団体。オランダ人のキュレーター、Waling Boersは期限付きでフリードリヒ駅からすぐの空きスペースをその束の間の存在自体も含め、ギャラリースペースとして借りることにしたようだ。
初回展覧会のタイトルは“Place to stay”。やれやれ、今回もまるで自分に投げかけられた問いのようなタイトルではないか。
ベルリンに来てからというもの、「出会いはギャラリーから。」というフレーズが脳裏に浮かぶくらい、ギャラリーとはなぜか縁があった。 Café Zapata (Tacheles), Akademie der Künste, Milchhof, Galerie Berlin Tokyo etc. そこで新聞にもそこでのエピソードが掲載され、それを読んだWalingは私がアーティストかなにかだろうと勘違いをして電話をしたんだそうだ。

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BÜRO FRIEDRICH 1997

ビジネスレベルのドイツ語はさっぱりだったが、できる範囲(間違いなくお荷物なレベル)でアシスタント業務をやってみることにした。プラクティコム(見習い実習生)というやつだ。
ギャラリーのアシスタント業務。今なら言葉の面で何ら問題なさそうだが、当時はドイツ語でメールを書いたことすらなく、決まり文句の“Sehr geehrte Damen und Herren”さえあやふやだった。電話で作品に必要な材料をオーダーするにも詳細情報を口頭で伝える必要があるが、こちらもしどろもどろ。東京やモスクワのギャラリー情報をピックアップしてまとめたことは覚えているが、結局、何がどう助けになったのか今でもさっぱりわからないし、細かな仕事内容がほとんど思い出せない。ただ、Walingに「あちこちキョロキョロしないで、何か一本に絞った方がいいよ。」と助言されたことだけは覚えている。

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CLUB SCREW / David Powell 1997

この頃はモスクワとベルリンを行ったり来たり、側からみていると全てが中途半端でどっちつかずだったんだろう。そして実際問題、日本で培われたこれまでの常識が総崩れし、何をどうして良いのかさっぱりわからず、ただただ途方に暮れていたように思う。
ベルリンにいてもモスクワにいても、常に自分は「ゲスト」でしかなく、境界線上をぐらぐらしているような心許ない感じが常にあった。そして、90年代のベルリンにはいずれは姿を消すであろう、仮のスペースが無限にあり、数多くのユートピアが出現しては消えていくという不思議な魅力があった。
これがいつまでも続かないことは、誰もがぼんやりとどこかで感じていたのではないだろうか。
Walingは現在、北京の798芸術区とNYにギャラリーを構えているようだ。相変わらず嗅覚の鋭い人なのだろう。ベルリンのアートシーンは彼にとって既に面白みがなくなってしまったのかもしれない。

Berlin 1996 / 90年代のベルリン⑤

Captain繋がりで、当時活動を始めたばかりのHoney Suckle Companyとも接点ができた。

「今日、午後からマウワーパークでアルテの撮影があるから好きな服を持って遊びに来ない?」と声を掛けてもらい、よく分からないけれど面白そうだった(当時は常にこういう状態)ので語学学校が終わってから、あわてて撮影場所だと指定された壁公園内にあった建物というかバラック小屋へと向かった。

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©Mariko Kitai

狭いスペースだったが、既に彼らの世界観が出来上がりつつあった。壁の棚には使い古されたぬいぐるみが並べられ、インスタレーションが壁を所狭しと覆っていた。どうやら、ここで各自が持ち寄った服で思い思いにスタイルを作り上げていく、というコンセプトらしい。

リーダー格だったペーターの独特でずば抜けたセンスには一目置いていた。見よう見まねでテープを貼ったりチューブをくわえてみたり、思いつくままその辺に散らばっていたパーツやアイテムを組み合わせて行く。カメラも気付いたら回っていた。

仕上げにペーターの手が入ると、メンバー全員がHoney Suckle カラーに染まってしまうのがスゴい。Captainもいつの間にかライブパフォーマンスを始め、脱皮の終わったメンバーは思い思いに身体を動かし、またいつものカオス状態が出現した。

1996 “Transformation Station”, Happening for Arte TV, St. Kildas Trips Drill, Berlin

そう、当時のベルリンはそれこそ、どこへ行ってもカオスだったのだ。道を歩いていても、地下鉄に乗って移動していても、見るもの聞くもの目にするもの、全てが混沌としていた。

そういう過渡期にあったベルリン独特の空気を彼らは痛い程感じ取って体内に取り込んで再現し、昇華させようとしていたのかもしれない。

後にモスクワとベルリンを頻繁に行き来するようになってから、彼らとの繋がりは途絶えてしまったが、Honey Suckle Companyとしての活動は2009年頃まで続いていたようだ。

先日、東独の写真家について投稿したが、たまたまその現代写真ギャラリーで彼らの活動を総括したカタログの出版を記念して個展が2016年に開かれていたことがわかった。幼稚園からすぐ側のギャラリーなのに展覧会に気付かなかったのは非常に残念だ。

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DAS BUCH
3.June – 30.July 2016
Galerie für Moderne Fotografie


以前、息子とミッテを散歩している時に偶然、洒落たブティックの前で休んでいたペーターにバッタリ会ったのだが、このブログを書くに当たり何となくFBで本人を探して友達申請をしてみた。

彼にも近いうちに会って色々話を聞いてみたいと思っている。

タイトル写真:©Honey Suckle Company

Berlin 1993〜94 / 90年代のベルリン①

日本の大学では英米文学専攻だったので、安易な考えで卒業したらアメリカかイギリスに1年くらいまずは住んでみよう、と思っていた。

そして、その下見も兼ねてまだ行ったことのないヨーロッパに一人で旅をした。

ビートジェネレーションに興味があったので、在学中にサンフランシスコやニューヨークにはそれまでにたった一度ではあるけれど足を運んでいたためだ。

ルートはざっくり決めただけ。ロンドンIN、パリOUT。後は好きに動いてみる。そこで、イギリス各地(ランズ・エンドからウェールズ、果てはエディンバラまで)を転々とした後、アムステルダムからベルリンまで来た時点で、疲れが溜まったのか体調を崩し風邪を引いた。

93年のベルリンの夏は天気が悪く、かなり肌寒かったように思う。街は灰色でがらーんとして寂しげだし、ひとりで道を歩いていてもガチャガチャと声をかけられることもなかった。

ベルリンはロンドンともアムステルダムやパリとも違い、当時はまだ救いようのないほど地味で暗い街だったのだ。

宿泊先のユースホステルもなぜかすぐ側に娼婦が立っているような辺鄙な場所にあってますます気が滅入った。どこまで行っても退廃的。

それなのに、なんだろう?一番リラックスしてマイペースで歩ける街だったのだ。

アレキサンダー広場でミュージシャンがパフォーマンスをしているのを見ていると、のびのびと楽しそうに踊っているグループがいた。

今から思えば、観光客相手のスリにでも遭いそうな状況だが、何だかくったくのない笑顔につられて打ち解けてしまう。そこで知り合ったのがミシェルというアルジェリア系フランス人で、彼に「東ベルリン側は面白いよ。コルヴィッツ広場付近を歩いてごらん。」と教えられた。

当時のコルヴィッツ通り(プレンツラウワーベルク地区)には今みたいなピカピカの高級アパートなんて一軒もなく、下を歩こうものなら今すぐ崩れ落ちそうなバルコニー付きのアパートが並んでいただけだ。

プレンツラウワーベルクのBla Blaだったかな?「ペチャクチャカフェ」的なネーミングのカフェでAkademie der Künste(芸術アカデミー)で開催中の何やら不思議な展示内容のフライヤーを見つけたので、ふらっと覗きに行って見た。芸術アカデミーがまだティアガルテンの側にあった頃だ。

そこには今までに見たことのない混沌としたカオスが。。平日の夕方だったからか、ほとんど見に来ている人もいなかったように記憶している。

そして、ミラールームのような展示に入ってみると、全身真っ赤なライダースーツのようなものに身を包んだ人物が近づいて来た。製作者のCaptain Space Sexご本人である。とまあ、見るもの会う人全てが意味不明で面白かったのだ。

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カタログはあいにく日本に置いてきてしまっていて、手元にないがネット上でカタログ表紙の写真が見つかったので載せておこう。

因みにこの表紙の網タイツを履いているのもキャプテン。

なんとYouTubeの映像が見つかったので貼っておこう。あのミラールームも登場している。

そして、この人物が住んでいた(今から思えば不法占拠のスクワットだと思うが)のが何を隠そうコルヴィッツ通りだったというわけだ。

ミシェルの言ったことに、「なるほどー!」と大納得したのは言うまでもない。

Puppentheater Firlefanz / 人形劇場

“Firlefanz”とは英語ではfool around、「ふざける」といったような意味だ。今日はそんな名前を持つ近所の小さな人形劇場について少し。
毎年、クリスマスが終わり年越しを迎えるまでの数日間、予定がぽっかりと空いて子供たちとのイベントを考えることが多いのだけれど、昨年末は久しぶりに徒歩圏内にある人形劇を観に行くことにした。
このFirlefanz人形劇場はミッテ地区のハーケッシャーマルクト(Hackescher Markt)に近いソフィーエン通り(Sophienstr.)にあるこじんまりとした劇場だ。
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この劇場はハラルド・プロイス氏によって1982年に創立された。東独時代の東ベルリンということになる。この日、観たのは「カスパールの結婚」であったが、このお話がこの劇場で初上演されたのがちょうど35年前だったらしい。特に思い入れの強い作品なのだろう。年末に必ず上演されているのだとか。
通りに面したドアを開けると、すぐそこが小さな劇場スペースになっていて少し面食らうが奥に進むとチケット売り場とスナック類が販売されているコーナーが設置されていた。
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そう、チケットや売店での販売から、1時間強に及ぶ人形劇を全てハラルドさんがひとりでこなすのだ。チケットは電話で予め予約するシステムになっている。
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こじんまりとはしているが、ユーモア溢れた人形劇は子供も大人も楽しめる。子供向けの人形劇から夜には大人向けの人形オペラも上演されているそうなので、機会があれば是非足を運んでみて欲しい。
手作り感溢れるとても心地よい空間がノスタルジックな感情を湧き起こす。
次に行くときは「魔笛」を観ようか、と子供たちと約束をした。
「カスパールの結婚」はハッピーエンドでまさに年末にふさわしい「終わりよければ全て良し」な展開だった。あいにくクリスマス直後の無茶なタイミングで新年早々の撮影コーディネートの話が入ってしまいこのブログ更新が滞ってしまっていたが、無茶なロケも終わってしまえば「終わりよければ、、」ということで、この話はここでおしまい。
*タイトル画面のカスパールとグレーテルの写真はHPより