ნიკო ფიროსმანაშვილი / グルジアの画家ニコ・ピロスマニ

昨晩、ツイッターを眺めているとグルジアの画家、ニコ・ピロスマニについての投稿が流れてきた。

いつどこでインプットされたのか記憶にないが、グルジア映画の「ピロスマニ」を以前から観てみたいと思っていたことを思い出させてくれた。

検索してみたところ、YouTubeにロシア語吹き替え版を見つけたので、観てみることにした。

グルジアの片田舎の家やヤギやウシなどの家畜、舗装されていない道、民族衣装に身を包んだ人々など、素朴な暮らしが映し出される。

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映画『放浪の画家ピロスマニ』ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督

「ここにハチミツがあります。」という小屋の壁に書かれた文字の左右にピロスマニが白と黒のウシの絵をかける場面が非常に印象に残っている。

その絵を見たからなのか、たくさんの人が牛乳やバター、チーズなどを買いにやってくる。ところが、ある日ピロスマニは貧しい老婦人に食料を分け与え、それに気付いて押し寄せた人々にもそこにあるだけの品を全て分け与えてしまう。

とにかく社会性がなく、商売っ気のかけらもない人物が描かれており、彼の素朴なタッチの絵画が映画の中でもひときわ際立って見える。

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「女優マルガリータ」 (1909年)グルジア国立美術館

皮肉なことにピロスマニは失意と貧困のために1918年に亡くなってしまうが、彼の死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになった。

生存中に一旦、ロシア美術界から注目され名が知られるようになったがプリミティヴな画風ゆえに新聞にカリカチュアが掲載され、幼稚な絵だと批判されたというのだから皮肉なものだ。

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「キリン」(1905年)グルジア国立美術館

日本とは何の接点もなさそうなピロスマニだが、「百万本のバラ」の歌を知っている人は多いはずだ。この歌の歌詞はロシア人の詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーによって作詞されたもので、アラ・プガチョワの「百万本のバラ」というヒット作品を生み出した。

この作詞のもとになっているとされるのが、ピロスマニとフランス人女優マルガリータとの出会いであるとされており、彼女への愛を示すためにピロスマニはマルガリータの宿泊ホテル前の広場を花で埋め尽くしたという逸話がある。


ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うという、多様な民族の芸術家が絡んでいる点で、ソ連ならではの歌とも言える。〜ウィキペディアより引用


ピロスマニはグルジアで発行されている1ラリ紙幣に肖像が使用されているのだそうだ。
ますますグルジアに足を運んでみたくなった。

 
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*個人的に「ジョージア」という国名がしっくりこないので「グルジア」と表記しています。

読んでみたい本も見つけたのでリンクを貼っておきます。

Leipzig-Pragwitz / ライプツィヒ・プラークヴィッツ地区

ある撮影で数日前までライプツィヒに滞在していたのだが、最終日に時間が出来たのでリサーチ中に見つけて気になっていた地区にシェアバイクを利用して足を運んでみることにした。
中央駅から南西に自転車で約20分ほど行ったところにPragwitz(プラークヴィッツ)という地区がある。ここはDDR(東独)時代には工業地帯が集中していた場所であるらしい。
自転車で走っていると、壁画や柵の色がカラフルなので何かと思いきや、畑らしき敷地が目に止まった。ここで作られた野菜を直販しているようだ。
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そしてその真向かいにTapetenwerkのロゴが。まだ時間的に早かったので人もまばらだったが、敷地内ですれ違った男性に少し話を聞いてみた。
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「この辺り一帯は工場地帯だったところで、壁崩壊後は目も当てられない状態だった。この建物も当時は屋根がなかったんだよ。25年前からエリア一帯にある建物を少しずつ修復して、やっと今の状態になったんだ。Spinnereiもそうだけれど、ここにはそういった工場跡地を利用したアートギャラリーや建築事務所、コワーキングスペース、アート協会、カフェ、などがたくさん集まっているんだ。入り口のカンティーネ(食堂)ではランチも食べられるから是非。」
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Tapetenwerk(絨毯工場)やSpinnerei(紡績工場)といった名前は元工場がギャラリーや工房としてうまく活用されている証しでもある。それにしてもこのエリア、空気の流れ方といい、そこにいる人といい、何だかとても懐かしい感じがする。
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その懐かしさ、一昔前のベルリンで覚えたようなワクワクする感じ。とにかくこのエリア一帯は歩いているだけで嬉しくなるのだから不思議だ。
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そして工場や廃墟好きには堪らないエリア。以前のベルリンで普通に目にすることができた光景がライプツィヒにはまだここかしこに存在していた。
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普段の日の11時過ぎだったせいか、人通りもまばらでとても静かな街角。ライプツィヒがこんなに伸び代のある街だとは思ってもみなかった。13時過ぎの列車でベルリンに戻る必要があったので、余りのんびりできないのが残念だったが、Spinnereiに到着。
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いつも思うのだが、ドイツ人は本当に古い建物の再利用がうまい。
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とても数時間では足りない規模の敷地面積。
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インフォーメーションセンターでは紡績工場の歴史を振り返る小さな展示スペースも設けられていた。
それについては、また次回に。

Haus der Statistik / 東ドイツの「統計の家」

アレキサンダー広場から北東すぐに窓ガラスもないボロボロの建物がずいぶん長い間放置されたままでいる。

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「統計の家」(Haus der Statistik )と呼ばれたその建物は1968年から1970年にかけて東ドイツ(DDR)の統計のための中央行政として建設された。そしてその最上階はシュタージ(国家保安省)によって使用されていたのである。

壁崩壊後は連邦省が一時的に入っていたが、2008年以降は空き家となっていた。数年前にBIM (Berliner Immobilienmanagement GmbH)が買い取り、その時点で芸術家のための家として再建させようという動きが強まっていた

2015年の春に難民キャンプにするというアイデアも出たが、却下されたのだとか。

ベルリンという街は本当に不思議で93年に初めて旅行で訪れた時にも思ったのだが、街のど真ん中に意味不明な残骸が残っていたり、がらーんと何もない空間が広がっていたりする。

最近ではさすがに余り見かけなくはなったが、アレキサンダー広場の目と鼻の先にこんなみずぼらしい状態の建物が何年も手付かずのまま放置されているのだから、大したものだ。

幸か不幸か、この建物がこのままの姿で放置されるのも2024年の5月まで(!)らしい。それまではホームレスの館としてまだその機能を維持し続けるのだろうか。

BIMによる今後のプロジェクト進行表は次のようになっている:

  • 今年の7月末までにプロジェクト進行の手続き
  • 11月中旬までファサードのコンペ
  • 2018年末までに仮プラン決定
  • 2020年4月末までに工事依頼の終結
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皆さんもご存知の通り、ベルリンの工事はスムーズに行程通り進む可能性の方が低いので、「統計の家」の修復工事が終わるのはまだまだ先のことだろうと思われる。

ただ、この建物は曰く付きの場所でもあるので、Zentrum für Geflüchtete – Soziales – Kunst – Kreative(難民・ソーシャル・アート・クリエイティブセンター)として生まれ変わることができれば、ベルリンの街にとって、最近の傾向でもある商業的なオフィスや億ションに姿を変えるより価値があるというものだ。

先日、息子のパスポート更新のために足を運んだミッテの市役所も今の場所は期限付きの借り物件だそうで、いずれは新しくなるこちらの建物に引っ越してくるらしい。

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計画では市役所その他の事務所関連は全体の20%のみが考えられており、その他は文化・社会的プロジェクトのためのスペースになる見込みだ。そのために建物の一部をアトリエなどのために根本的に作り直す作業も必要だという。

PCB(ポリ塩化ビフェニル)やアスベストの含まれる解体作業やその他修復作業には1億ユーロが見込まれている。

時間は掛かりそうだが、この建物の今後の行方には期待したい。

参考記事:Haus der Statistik DDR-Ruine am Alexanderplatz wird wiederbelebt https://www.berliner-zeitung.de/berlin/haus-der-statistik-ddr-ruine-am-alexanderplatz-wird-wiederbelebt-30032420#
http://www.haus-am-alex.de/about

Kaufhalle in der DDR / 東独時代のスーパー

ある夏日の日曜日。Japan Street Food祭りらしきものが文化醸造所(Kulturbrauerei)と呼ばれる元ビール醸造所を改装して作られたカルチャーセンターの敷地内で行われるというので、子供たちを連れて足を運んでみた。
お好み焼きや唐揚げ、たい焼き、プロペラ(じゃがいもを薄くスライスして揚げたもの)などを堪能した後、近くの公園に行ったが天候が崩れたこともあり、入場料無料のカルチャーセンター内にある博物館へ戻ることにした。
文化醸造所博物館(Museum in der Kulturbrauerei)はドイツ連邦共和国歴史博物館財団(die Stiftung Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland)によって、Alltag in der DDR「DDRの日常」というテーマの博物館として2013年11月にオープンした。
展示内容は東独時代の日常生活と社会主義統一党(SED)政権下におけるイデオロギー、管理メカニズム、圧迫感などの緊張関係にスポットが当てられている。
展示は数多くのドキュメント、映像、音声資料などによって構成されており、DDR時代のキオスクやバー、休暇の家なども再現されている。これら日常シーンの再現とともに、SED政権によるプロパガンダが人々の生活のあらゆる場面に侵入していたことを感じ取れるような工夫がなされていた。
どこか素朴な東欧のテイストが好きなのであるが、東独もまた然り。特に気になったロゴがタイトル写真の3人組のネオン看板だった。一緒にいたDDR出身の友人が「今のようにREWEやEDEKAというチェーンなどはなく、スーパーマーケットといえばKaufhalleだった。あのロゴはKaufhalleのものだよ。」と教えてくれた。
気になったので調べてみると、なかなか興味深い記事が出てきた。


Die gute alte Kaufhalle: https://www.mdr.de/zeitreise/kaufhalle-100.html
Am 26. September 1957 öffnete in Köln der erste Supermarkt. Er war nach amerikanischem Vorbild konzipiert und besaß eine Verkaufsfläche von 2.000 Quadratmetern. In der DDR wurde erst 10 Jahre später ein erster Supermarkt eröffnet – die “Kaufhalle”.
1957年9月26日にケルンで最初のスーパーマーケットがオープンした。スーパーはアメリカを手本にしたもので、売り場面積は2000m2だった。DDRではその10年後に最初のスーパーマーケットである”Kaufhalle”がオープンしている。


波上の屋根を持つホールの正面に素敵なKaufhalleのロゴと共にあの3人組が。左側にHOとあるので何かと思ったら、Handelsorganisation (HO)、商業組合の略だった。

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Kaufhalle in Greifswald Bildrechte: dpa

Kaufhalleでは所謂、”WtB” – “Waren des täglichen Bedarfs”パンやバター、果物、牛乳、ドラッグストア商品などの「日用品」が購入できたので、現在のスーパーマーケットやディスカウントショップなどに当たる。
ところがこのスーパー、SED党首ホーネッカーや副首相ミッタークらの休暇の家に近いという理由だけで、ほぼいつもベルリンのビールや新鮮な果物に野菜、その上南国フルーツであるアプリコット、バナナ、レモンといった他ではコネがないと手に入らない類の商品が並んでいたり、SED本部のあったベルリンは地方と比べると格段に品揃えが良かったり、というようなことがあったのだそうだ。
今でも、旧東独エリアではスーパーマーケットのことを俗語でKaufhalleと言ったりもするらしい。
たかがスーパー、されどスーパーである。


この博物館、思った以上に面白かったので是非足を運んでみて下さい。
博物館のサイトでDDR時代の展示品アーカイブがあったので、興味のある方は以下のリンクをご参考までに。ポスターや玩具、食器なども多数あるので見応えがあります。
http://sint.hdg.de:8080/SINT5/SINT/query?term=SIG

Holzmarkt / ベルリン最後のユートピア?

もう、かれこれ2年くらい前だろうか。Holzmarkt通り沿いのRadial Systemで知人のダンス公演があったので、JannowitzbrückeからOstbahnhofに向かって歩いていた。

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すると道沿いに木の掘っ建て小屋やベンチなどが雑多に置かれたスペースがあって、「まだこんな場所があるんだ。」などと思いながらぐるっと一周して、また改めて見に来ようと思いながら、そのまま長い間そんなことすら忘れていた。

そして、昨年の秋。仕事で高城剛さんの取材に同行した際に、「ホルツマルクトってご存知ですか?面白いから行ったほうがいいですよ。」という話しになり、その時はまさか高城さんの言う「面白い場所」、というのが2年前に足を踏み入れたやたらと木でできた手作り感満載だったあの場所のことだとは思いもしなかったのである。

それからまた時間が経ち、昨年の冬にようやく再訪したホルツマルクト(Holzmarkt)。まだ午後の早い時間だったせいもあり、人もまばらで店も開いておらず、唯一開いていたカフェで暖をとることにした。

・・・のだが、ここでも残念ながらまたいつもの違和感を肌で感じたのである。この違和感のせいで、実はブログに書くのも嫌になってしまっていた。

どうしてか。店内には英語のみが飛び交い、カウンター越しの男性の対応もどこかつっけんどんで話にならなかったのである。

本当に残念なことに、この「鼻持ちならない感じ」はベルリンに来たばかりの当初、90年代半ばには微塵もなかった空気なのだ。

元来、資本主義に対抗するはずのヒッピー文化がここにきてビオブームやエコビジネスなどの流れで商業化した結果、とでも言えばいいのだろうか。ヒップスター?つまらない。

残念ながら、正直全く好きになれなかった。そして、またホルツマルクトからは足が遠のいていた。表面的には昔のベルリンを彷彿とさせる手作り感はあるので、撮った写真を何枚かここに載せておこう。

前置きばかりが長くなってしまったが、タイトルにあるようにどうやらホルツマルクトの存続が危うくなっているのだとか。

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©EckwerkのHPより

その主な原因は2014年からホルツマルクト共同組合(Holzmarkt Genossenschaft)の掲げるリビングスペース及びワーキングスペースを融合したフューチャーハウスとも呼べるEckwerkのコンセプトが頓挫したことによる。

2017年5月1日にホルツマルクト村は華々しくオープンしたのだが、Eckwerkはその時既に困難に陥っていたようなのだ。

  • ホルツマルクト協同組合(Holzmarkt Genossenschaft / Eckwerk Entwicklungs GmbH)
  • スイス年金基金(Stiftung Abendrot)
  • Gewobag
  • クロイツベルク・フリードリヒスハイン地区市議(Bezirksstadtrat für Bauen)

とにかく、何が問題になっているのかというと、Eckwerkの共同プロジェクト構想(Gewobagが噛んでいる)へのゴーが意見対立や法律的な問題でなかなか出ないことに尽きる。それに業を煮やした年金基金がEckwerk建築予定地の借地契約を解消しようとしていること、ホルツマルクト組合が長引く裁判のため経済的に圧迫され、自己破産寸前だということなどらしい。

ベルリン市の打ち出したメディアシュプレー構想に真っ向から対決し、75年の借用権利を勝ち取ったわけだが、ここ数年のベルリンの土地の異常な値上がりやそのロケーションから資金難に陥り、海外からも注目されたユートピア構想が頓挫するという、まさに今現在のベルリンの現実を目の当たりにさせられる。

とはいえ、Eckwerkにスタートアップ企業を誘致し、アーティストとのコラボから云々という文脈からはもはやジェントリフィケーションの匂いしかしない。

しかし、1年も経たないうちにここまで注目されたプロジェクトがあっさりと頓挫してしまうベルリン。それも何だか悲しい現実でしかない。一等地にユートピアを生み出す構想はこのまま終わってしまうのだろうか。その行く末に注目したい。

参照記事:
https://www2.holzmarkt.com/
https://www.rbb24.de/panorama/beitrag/2018/05/holzmarkt-berlin-finanzen-schwierigkeiten-eckwerk.html
https://www.morgenpost.de/berlin/article212700287/Holzmarkt-in-Friedrichshain-Aerger-ums-Modellprojekt.html

余談になるが、夏日が続くベルリン。偏見を捨てて、夏のホルツマルクトも体験しておいた方が良さそうだ。

Poznań / ふらりとポズナンへ③

前回、前々回とポズナンへふらりと来た経緯と街の住人たちについて少し書いたが、今回は短い滞在中に見つけたお気に入りの場所をいくつか挙げてみよう。


1)Centrum Kultuly Zamek / ザメク・カルチャーセンター
ポズナンにある建造物の中でも最大規模を誇るこの城は1905年から1910年までドイツ最後の皇帝カイザー・ヴィルヘルム二世の居住地として建設された。
第一次世界大戦後はポーランド領に戻ったポズナンの領主の居住地として、またポズナン大学によって使用されることになる。第二次大戦中はヒトラーの居住地にするためナチスによって建て替えが行われる。居住地エリアの家具調度はこの時期のものに当たるのだそうだ。
終戦後は再びポズナン大学が短期間入るが、1948年に市の行政施設として使用される。1960年代から文化パラストとして使われ、90年代半ばよりザメク・カルチャーセンターとして再スタート。2010年から2012年にかけて改装が行われ、現在の姿に至る。
とまあ、この城の歴史をざっと振り返るだけでも、ポーランドの複雑な歴史が垣間見られるわけだ。

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©CKZAMEK HPより城外観

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©marikok 旧館エリア

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©marikok 新館内部

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©marikok 新館に併設のブックストア

城の内部は自由に見学が出来るように一般公開されており、新館部分には映画館、展示スペース、子供のためのアートスペース、シアターなど様々な文化施設が入っている。天井がガラス張りになっているカフェなどもあり、とてもゆったりと過ごすことができた。


2)Galeria Miejska Arsenał / 市立ギャラリー・アーセナル
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アートを通して今の政治、社会、環境問題などを中心に議論の場や対話を提供することを目指しているギャラリー。有名な市庁舎のある旧市場広場にあり、どちらかといえば周囲の建物からは浮いた無機質なモダニズム建築である。保存を巡っては恐らく議論が起こっただろうと思われる。
このスペースに足を運んでみたが、ちょうどポズナン・デザインフェスティバル枠で環境問題に取り組む街づくりをテーマとしたnew city scenariosという展覧会を見ることができた。
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様々な都市の取り組みが分かりやすく展示されており、ベルリンやポズナンについても紹介されていたので引用しておこう。
POZNAN
Urban planning is characterised by a unique layout, with local markets and bazaars located there in each of the city’s historical districts.
BERLIN
In 2015 the city introduced a law regulating rent in city apartments to prevent the process of gentrification.
ベルリンの政策がジェントリフィケーション防止に役立っているかは別として、各都市での取り組みが分かりやすく展示されており興味深かった。オランダや北欧がリードしている印象だろうか。


3)Park Cytadela / ツィタデラ公園
長くなりそうなので、最後にポズナン北部に位置する気持ちの良い公園を紹介しておく。ポズナンの街にはステーションを持つドイツはライプツィヒ発のNextbike / rower miejskiのみがシェアバイクを展開している。
IMG_5525 旧市街は石畳が多く、自転車は乗りづらいのだが、少し遠出をする場合は要所ごとにステーションが設置されているため非常に使い勝手が良かった。結果的に今回の滞在中は市内交通3日券よりもこちらのシェアバイクを多用した。

モニュメントの立つ広場があったり、武器博物館や整備された広場のある総敷地面積約1㎢の公園。大きく一周すると約3キロあるので、ジョギングをするには最適だった。途中、モニュメントがたくさんあったため、立ち止まって写真を撮ってばかりいたが公園としてのクオリティーはかなり高かった。市民の暮らしが垣間見れるのも公園の良さだと思う。
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まだまだ、お勧めしたい場所はたくさんあるのだが、今回はここまでにします。

NULL / シャウビューネでの観劇

ヘルベルト・フリッチュ(Herbert Fritsch)監督作品、der die mannに参加している友人のお誘いで、フリッチュ監督としてはシャウビューネでの2作目に当たるNULL(ゼロ)を観に行く機会があった。

私自身も彼の作品を観るのは今回で2度目である。劇場内に入ると、前回と同様ミニマルな舞台装置が目に入った。

舞台中央にチョークのようなもので描かれた円と線からなる幾何学模様。舞台上手には布や紙で作られたカーテンのようなものが何枚か垂れ下がり、下手には大きなスクリーンが設置されている。舞台の隅には赤と黄色の円や、円がくり抜かれた四角いアクリル製ボードが並べられている。そして、長い1本のバー。

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NULL / Foto: Thomas Aurin 2018

写真でも分かるように、フリッチュ作品では役者が安全ベルトで吊られたり、フォークリフトで3mほどの高さまで持ち上げられたり、バーでサーカスのような動きを披露したり、とかなりアクロバティックな技術も求められる。

サウンドや発語、ライティングと壁に映し出される影、役者の動きなどそれぞれの要素が緻密に計算されているようなタイミングありきの演出で、観客も退屈する暇がない。

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NULL / Foto: Thomas Aurin 2018

なんと、この日は公演中に観客席にいた女性が突如、歌いながら舞台に上がるというハプニングも起きた。それに対する役者のアドリブも自然なもので、演出なのかそうでないのか観ている方にはわからないほどであった。

「いやー、あれには驚いたよね。」と公演後に役者さんのひとりが教えてくれたので、事故だったことが判明し二度ビックリ。舞台監督のアシスタントの女性がすぐ側に座っていたことも幸運だったように思う。

役者さん曰く、この作品のために6週間もの間、連日4時間ほどのリハをしたのだそうだ。シナリオなどは特に用意されておらず、テーマやそのテーマに対するフィーリングのようなものを掴むために何度も何度もコレオグラフィーを繰り返す。その上で、これだ!という振り付けだけが残され、消えていったアイデアも数多くあるのだろう。

タイトル画面の大きな「手」。この大掛かりな装置だけが先に作られ、何に使うのかは特に決められていなかったそうである。

これまでに観たフリッチュ監督の作品は言葉が分からなくても十分楽しめるので、観劇にどこか抵抗のある人にこそお薦めしたい。

DUDU TASSA & THE KUWAITIS / イスラエル発のクロスカルチャーバンド

またあるツィートがきっかけのネタ。今回のキーワードとの出会いは素晴らしいものだった。

DUDU TASSA & THE KUWAITIS
今、「世界一かっこいいバンド」だと思う、という一文に惹かれ映像リンクに飛んでみた。それがこちら。

ドゥドゥ・タッサとクウェーティー兄弟(Dudu Tassa & the Kuwaitis)の「サーイブ・ヤー・ガルビー・サーイブ / “My heart has shattered into pieces”」。


Dudu Tassa & the Kuwaitisはイスラエル発のクロスカルチャーなユダヤ・アラブプロジェクトで、20世紀初頭のイラク音楽界で最も人気のあったAl-Kuwaiti Brothersの音楽を現代風にアレンジしてリバイバルさせている。
ドゥドゥ・タッサはイラクのユダヤ人、そしてイエメン人としての家系を持ち、自身のルーツを探るうちに素晴らしい音楽の歴史と向き合うことになる。彼の祖父と大叔父はクウェーティー兄弟として知られ、20世紀初頭から半ばにかけてバグダードで偉大な作曲家そして音楽家としてイラク、そしてアラブ世界を代表する音楽家にまで成長していく。彼らは1950年代にユダヤ人であることが理由で、イラクで迫害を受けたためイスラエルに移住している。
参照:https://www.the-kuwaitis.com/about1


私自身のアラブ音楽との出会いは、ベルリンに来てすぐに知り合いになったアルジェリアとフランス人のハーフだったミシェルやその友人たちが聴いていたシェーブ・ハレド(Cheb Khaled)他のライ音楽や、ルーム・シェアをしていたシリア人の同居人が自宅で演奏していたダルブカや常に流れていたシリア発、その他のアラブ音楽である。

ドゥドゥ・タッサとクウェーティー兄弟の「サーイブ・ヤー・ガルビー・サーイブ」、には何と言うか一撃でやられた。

たまたま、イスラエルやシリア関連のネガティブな記事が気になっていたところだったのだが、人というのは基本的に自分には理解できないものや知らないものに対する恐怖心というものがあり、それが様々な障壁を作ってしまうのではないかと思うのだ。

音楽から入ってしまえば、そんな恐怖心も一瞬で払拭できるはず。彼の歌声を聴きながらそんなことを考えた。

今のこのタイミングで彼らをベルリンに呼ぶことはできないものだろうか。是非、彼らの紡ぎ出す音を生で体感してみたいものだ。

そんな彼らのプロジェクトによるファーストアルバム、Dudu Tassa and the Kuwaitis (2011)のレコーディングの様子はIraq’n’roll (2011)に収められている。

このアルバムに収められている曲はイラクのアラビア語で歌われているが、タッサはこのプロジェクトのために特別に言葉を学んだのだそうだ。

アラビア諸国やイスラエルの歴史については正直、ほとんど無知に近い状態なのでここで自分の見解を述べることはしないが、少しづつでも知る努力をしていこうかと思っている。

タイトル写真:https://aicf.org/artist/dudu-tassa/

Kippa / キッパを被ろう

先日、いくつか引っかかる記事に遭遇した。
一つ目は夜間ではなく日中のプレンツラウワーベルク地区で起こった反ユダヤ主義的暴力事件。襲われた21歳の青年はドイチェ・ヴェレとのインタビューでこう答えたというのだ。

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私はユダヤ人ではありません。私はイスラエルでアラブ系家族の元で育ちました。」彼の友人のひとりがドイツでは街中をユダヤ帽(キッパ)を被って歩くことは危険だ、と警告したらしい。そして、彼はそれを信じることができず、その逆を証明したくてキッパを被ってみたんだそうだ。被っていた帽子はイスラエル人の友人からもらったもので、これまでにキッパを被ったことはなかったという。

ユダヤ人でもなく、ユダヤ教の信者でもないアラブ系の若者が、敢えてキッパを被って試験的に道を歩いてみた、ということになる。設定が不自然な気がしないでもない。加害者と見られる若者はアラビア語でユダヤ人を表す「Yahudi」という言葉を何度か口にしている。

この若者が襲われた地区は犯罪が多いややこしい場所ではなく、どちらかと言えばブルジョアの多く住むプレンツラウワーベルク地区のヘルムホルム広場からすぐであった。周辺には日本人の経営する和食のお店もいくつかあるのだが、お洒落なカフェやレストランなども多く、子連れのファミリーで賑わう公園などもあるため、人通りもそこそこ多かったはずである。

この事件を受けて、民主主義と反アンチセミティズムのためのユダヤ人フォーラム(JFDA)の広報、レビ・サロモン氏は「ベルリンでも裕福な地区であるプレンツラウワーベルクの公道でひとりのユダヤ人だと思われる若者が襲われているのを見ることは堪え難い。このことはユダヤ人がここでも安全ではないということを示している。」と見解を述べている。

被害者が撮影した映像

参考記事:Zeitonline: Attackierter Israeli spricht von “Erfahrung”

この事件後、フェイスブック上でベルリンのユダヤ人コミュニティーから、市民に連帯を呼びかける集会の告知が出ていた。「ベルリンはキッパを被る」というタイトルのポップでカラフルなデザイン。時間的にも場所的にも足を運ぶには厳しいのだが、とても気になっている。

長くなってしまったので、次回はもうひとつ気になった記事「学校でのいじめ」(Schulmobbing)について書こうと思っている。

追記:加害者はシリアから難民としてやってきた19歳のシリア人の若者だったそうだ。