【海外生活】気づいたら30年目を迎えていたベルリン滞在

テーゲル空港に降り立つ

1995年の4月12日にスーツケースひとつと段ボール箱ひとつでテーゲル空港に降り立ってから、今年でもう30年になる。当初は1年の滞在にするつもりで、大学卒業とほぼ同時にベルリンにやってきたのだが、英文科を卒業してドイツのベルリンにやってきたという理由が今でもよくわからない。知り合いらしき知り合いもおらず、ただ「ここに住んでみたいなぁ」という、まるで浦島太郎が竜宮城を目の前にして言いそうなセリフが頭に浮かび、それに従ったまでだ。ベルリンは竜宮城のように煌びやかな世界でもないのだが、まぁいいだろう。

それにしても30年の海外生活というのはやはり長い。大学を卒業して社会人を経験せずにこちらに来てしまったので、逆に「日本の生活」に憧れている自分がいる。日本でやりたいことといえば、近所をジョギングして帰りにコンビニに寄ってスポーツドリンクとカロリーメートを買う、とかその足で銭湯に行って汗を流す、とか。仕事が終わったあとに映画館で映画を観たり、スーパーの大量のお惣菜の前であれこれ迷ったりとか。ただただ普通の生活がしたいのである。そして休日には六甲山でハイキングをしたり、奈良の二月堂や春日大社に行きたい。昔はそれが普通のことだったが、今だと考えただけでワクワクしてくる。そのくらい日本の風景から遠ざかってしまった、ということなのだろう。自分の幼少時の環境というかそれらの景色は思った以上に大切なものなのだ。

1年だけ、と言い残してふらっと来た当時とは違い、今のように子どもがふたりいる状況だと、子どもたちがある程度の年齢に到達しないと、なかなか思うようには動けない。だから、それまではベルリンでまだ何か面白いことができないかと自分の興味のアンテナをもう少し広げてみることにした。とにかく気になったものは時間を確保して足を運ぶ。ベルリン映画祭やシャウビューネの国際演劇祭、新しく始めたボルダリングや数年続けている筋トレにジョギング。

仕事に関していえば、昨年は縁があって赤十字が運営する難民センターで半年働いてみたが、今年は翻訳や校正、調査の仕事などを中心にフリーランスとして活動しているところだ。機会があればまた別分野で就職することも念頭に置いているが、今年は諸事情でそれも少し難しいかもしれない。今はとにかく進学先で躓いている息子の勉強のサポートに力を注ぐ必要があるからだ。

日本には間違いなく近々、タイミングを測って半年あるいは1年程度、腰を落ち着けて住んでみるつもりでいる。時間は私の都合などお構いなしに過ぎ去っていくばかりで、リミットを超えてしまうと日本に帰国するのが難しくなってしまうからだ。もちろん日本人なのだからいつでも帰れるのだろうけれど、やはり仕事や住居の確保、年金など生活するための基盤を作るためには早ければ早い方がいいのは当然である。そして自分の親だって同じように歳をとってしまう。毎日、気持ちばかりが焦っている。

語学学校と大学入学のためのドイツ語試験(DSH)

30年前にはまさかこんなことになるとは思わず、文字通り「何も考えずにとりあえず」ベルリンに移住した。1年のつもりだったので、荷物も少なく、気分的には奈良から大阪に引っ越しをするくらいの身軽さでやってきた。当時はまだワーキングホリデーという制度もなく、語学ビザに切り替えるための仮ビザでベルリンに入り、語学学校に通いながらビザの書き換えの手続きをする必要があった。その語学ビザというのも、語学学校で一緒になった日本人に最長で1年半しか出ないことを告げられ、1年半で大学入学資格に必要なDSH(C1相当)に合格する必要が出てきた。そう、ふらっと気軽にやってきたはずなのに、当初計画していた1年など、何もしないうちにあっという間に過ぎ去り、いつしか語学ビザから学生ビザに切り替える、というのが目標になっていたのである。特に勉強したいことがあったわけでもないのに、大学に入学することになるとは思いもしなかった。NCという入学制限のある学科は難しいので、そうではない学科を選んで入学申請をしたのだが、その際に選んだのは「ロシア学科」「ドイツ言語学科」と「ジャーナリズム学科」だった。そして、その中でも一番実生活に必要だったロシア語学科の準備コースにだけ真面目に足を運ぶことになったのである。C1をギリギリで取ったばかりという頼りないドイツ語でロシア語の授業を受ける日が来るとは。そして案の定、授業についていくのが精一杯でテストのできもまぁまぁ(befriedigend)、というパッとしない評価しか得られなかった。今から思えば、よく落とされなかったとは思う。

ドイツ語でロシア語の学習

ベルリンに来たばかりなのに、なぜロシア語を?と思われた方もいるかもしれない。ロシア語の勉強を始めたのは、気づけば周りにロシア人の知り合いがたくさんいた、というそれだけの理由である。当時はクロイツベルクにあるWG(共同アパート)の一室を借りて生活していたのだが、ある日、近所を散歩していたらギャラリーで作業している3人組が目に入った。その中のひとりが手を振ったので、一緒に散歩していたフランス人(アルジェリアとのミックス)とギャラリーの中に入ってみたところ、やたらめったら意気投合して何時間も話し込むことになった。そのときはまだ英語で話をしていたのだけれど、回を重ねるごとにロシア語率が高くなっていき、理解できないことに耐えられないタイプの私は、その打開策として大学でロシア語を勉強することにしたのである。授業料もほぼ無料に近く、大学生という身分であれば全てが学割で生活できたのだからありがたい話だ。そして、そこで1年半だったか2年くらい学びつつ、その間に何度もモスクワに足を運ぶことになった。90年代のモスクワはベルリン以上に全てがカオスだったのだから救いようがない。「なんだこれは!?」の連続で飽きる、ということがなかった。

そうこうするうちに、なぜか現地で知り合いになった日本人に「働きたいのであれば、病院の受付をずっと探しているクリニックがあるから面接に行ってみる?」という流れになり、まぁ行ってみるだけ行ってみるか、とA4で1枚の履歴書を持参して面接に臨んだ。人事のナターシャ(またナターシャ笑)とアメリカ人のクリニックマネージャーが「それだけ話せるのなら受付と日本人の通訳をやってみない?」と言うので、思わずひっくり返りそうになった。「やってみるのはいいんですが、ベルリンでロシア語学習を始めてから、まだ日が浅いのでそこまでのロシア語力があるとは到底思えません」と正直に言うと、先方は私がロシアではなく、ドイツに住んでいる、という事実に驚いていた。「え、あなたベルリンで学生なの?モスクワに住んでいるとばかり思っていたんだけど」と言うので「いえいえ、今は友人を訪ねてたまたまモスクワに来ているだけです」と答えた。それでも先方が引かないので、ビザについていろいろと手続きをしたり、日本に帰って準備したいこともあるので3ヶ月間待ってくれるのであれば、モスクワ行きを考えます、と提案したところ、それが承諾されてしまったので、覚悟を決めることになってしまった。なぜ、こんなことに。友人との会話を成立させるためだけに始めたロシア語学習がこんなことに繋がるなんて。

流れでモスクワでのインターン開始

2001年の2月から、まさかのモスクワである。2月という真冬に好き好んでモスクワに引っ越す人もそういないだろう。ベルリンに来てから6年ほど経ったタイミングになる。「なんでこんなに寒いんだ!?寒いというより痛い!もういろいろと!!」とさすがに自分でも呆れてしまったが、もっと呆れていたのは日本の家族だったかもしれない。「もうなんでモスクワ?ベルリンでいいやん」と言ったのは確か母親だった。本当にそうだと思う。

現在の見通しと今後の行方

こうしてモスクワでのインターンが決まり、モスクワで毎日怒涛のような生活を半年ほど送ったのちに、またベルリンへ戻ったわけだが、そのあとは比較的普通にベルリンで就職をしたり、フリーランスとして仕事をしたり、結婚や出産、育児などに追われる生活を送ってきた。モスクワでの半年未満の生活を終えてしまえば、あとは何があってもそれほど驚かなくなってしまったのだろう。

子どもたちも小学校を卒業し、順調に行けば(もちろん、そうは問屋が卸さないのだが)長女は今年11年生、長男は8年生になる(はずである)。コロナ禍以降、相次ぐ身近な戦争で欧州も世界も年々不安定になりつつある上、ドイツの政治も雲行きがかなり怪しくなっている。もうそろそろ「普通に暮らしたいなぁ」となるのも無理はないというか、あの浦島太郎だって竜宮城である日ふと地上のことを思い出すわけなので何ら不思議ではない。

「おっかあは元気かいのぉ」というやつである。無性に自分の暮らしていた国や親のことが気がかりになるタイミングということなのだろう。それより今は正直、息子の成績が悩みの種である。駆け足で30年を振り返ってみたが、30年なんてあっという間だし、なんだかんだいっても日本に帰りたくなるタイミング、というのはどこかでやってくるものだ。そのタイミングに合わせてひょいっと帰ってしまえればいいのだけれど、長く住めが住むほどさまざまなしがらみができたりもするので、帰れるかどうかは人それぞれ。

とにかく今できることを一生懸命やるしかないのだろう。どうせまた、いつものように思いもよらぬできごとでおのずと答えが出るに違いない。

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